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古代鏡展示館増築工事が始まりました

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7月ももう終盤ですが、まだ夏休みが始まらない学校も多く、梅雨も長引いています。新型コロナも心配。猛暑は勘弁願いたいですが、夏の到来が待ち遠しい今日この頃。 小雨降る梅雨空の下、7月25日に古代鏡展示館の増築工事が始まりました。 まずは本格的な工事を前に、工事会社の現場事務所とフェンスの設置工事から。 フラワーセンターの名所、モミジバフウの並木道の一部を無粋なフェンスで封鎖するのは心苦しいのですが、園内ご利用の皆様の安全確保のため、とご理解いただきたく存じます。 通路は狭くなりますが、これまでどおりに並木道の散策は行えます。 これから安全に工事を進めてまいりますので、皆様のご協力をお願いいたします。

サビの話

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梅雨の日が続きます。じめじめした湿度の高さは、文化財の大敵であるカビとサビの発生する原因にもなります。今回は、金属の大敵とされるサビについてのお話です。 千石コレクションの銅鏡は保存状態の良好なものが多いのですが、大部分の鏡に多少なりともサビが認められます。 よく「なぜ展示している鏡のサビをとらないのですか?」とのご質問をいただきます。 銅に発生するサビは、その色合いから 緑青 (ろくしょう)と呼ばれています。緑青はその色合いがいい味を出している、という見方もありますが、美しく細密な紋様がサビで隠れてしまうと台無しだ、との意見もあります。 蓮花柘榴紋八花鏡 (唐 図273) (9月22日まで展示中) 当館が緑青をそのまま残しているのには理由があります。 まず、緑青は良いサビだからです。 緑青はサビの原因の1つである酸素に触れる金属の表面にのみ発生します。そしてサビの皮膜によって金属内部を腐食から保護する効果があるのです。緑青に覆われた屋外の古い銅像が朽ちてしまわないのはこのためです。 次に、本来なら朽ちて残らない布などの有機物がサビに取り込まれることで、残っていることがあるためです。 貼銀鍍金双獣双鳳紋八稜鏡には、鈕に通した紐が残っています。 貼銀鍍金双獣双鳳紋八稜鏡 (唐 図244) 鈕の両側(矢印)に紐が遺存しています。 (現在展示していません) 他にも 鏡を覆っていた布などがサビで残された例もあります。 サビを取り去ると鏡の表面に残っている有機物の資料も損われてしまいます。緑青は良いサビなので、紐や布など微細な資料が含まれる可能性を考慮してあえて現状のまま残しているのです。 もちろん銅にとって悪いサビもあります。それが見つかると当然取り除くことになりますが、まずは温度・湿度を管理するなど、サビが現状よりも進行しない環境づくりにつとめています。

ナゾの紋様

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中国では、戦国時代(前453~前221)以降銅鏡の制作がさかんになります。 この頃の銅鏡は、鏡背面に細かい地紋を施し、その上に主紋様を表すのが特徴です。 四獣四山字紋鏡 (図56 戦国時代) (9月22日まで展示中) 写真の鏡は、地紋の上に表した漢字の「山」のような形をした4個の紋様を主紋様とし、その間に4体の獣像を配置しています。 漢字文化圏に暮らす私たちが見ると、「山」にしか見えない紋様。この時代には漢字の「山」はまだ存在していません。だから「山」は文字ではなく紋様( 山字紋 )であり、これをを主紋様とする鏡なので、 山字紋鏡 と呼んでいます。 では、山字紋は何を表しているのでしょうか。 まず紋様の見方です。鈕のある中心から見れば「山」字形。こちらの見方が主流ですが、鏡の縁部から見て「T」字形だと言う研究者もいます。 紋様の解釈も諸説があります。文字どおり山岳を表している、青銅器に描かれた雷紋から派生した紋様等々、いまだに決着していません。 山字紋鏡は、戦国時代後期(前3世紀頃)に盛んに制作されました。鏡背面に表される山字紋の数は3~6個の4種あり、例えば3個なら三山字紋鏡と呼んでいます。 五山字紋鏡 (左)と 六山字紋鏡 (右) (図59)    (図58) 五山字紋鏡や六山字紋鏡は、山字紋の配置から星(✰・✡)を表しているようにも見えます。 千石コレクションには山字紋鏡4種全てがあります。現在は1面のみ展示していますが、各種類を順次展示しています。シンプルながらも謎を秘めた「山」の字のような紋様。さて、あなたの解釈は・・・

本日から開館します

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6月1日、本日から古代鏡展示館は開館しました。 月も変わり、社会も徐々に日常を取り戻しつつある中での再出発。 開館にあたり、博物館として「新しい生活様式」を取り入れています。 入館の際はマスクを着用して下さい。 入口やトイレ・展示室前に消毒剤を設置していますので、ご利用下さい。 また、入館の際、検温と連絡票へのご記入をお願いしています。 連絡票は、新型コロナウィルス感染者の入館が判明した際の連絡に用います。ご協力をお願いいたします。 長らく中断していた企画展「美と微 美の集積と技巧の微」も再開しました。 なお、展示室内での感染防止やお客様同士の距離を確保するため、 ご好評だった拡大モニターの休止や椅子を減らすなど一部サービスを停止しています。 古代鏡展示館としても初めての試み。スタッフも喜びと不安が入り交じって開館日を迎えました。 ご来館の皆様にはご不便をおかけいたしますが、どうかご理解くださいますよう、お願い申し上げます。

6月1日 から開館します!

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新型コロナウィルス感染症の拡大に伴う長い臨時休館が終了します。 古代鏡展示館はいよいよ 6月1日(月)開館 いたします。 季節も春から初夏が過ぎ、もう夏、一足早く開園したフラワーセンターの賑わいを横目に、開館の準備を進めてまいりました。 企画展「美と微 美の集積と技巧の微」も再開。秀麗高雅な鏡がご来館をお待ちしています。 開館にあたり、皆様にお知らせいたします。 感染予防のため、館内で提供していたサービスを当面の間一部制限いたします。 また、以下のことについて、皆様のご協力をお願いいたします 1 当館への入館条件をもうけます   ・ 発熱(37.5度以上)のないこと (入館時に検温を行います)   ・ 風邪症状、味覚及び嗅覚異常等のないこと   ・ マスクを着用すること 2  入館時に「連絡票」に連絡先をご記入いただきます。   ※感染者の入館が判明した際の連絡に使用します 3 入館後ご協力いただくこと   ・手指消毒やこまかな手洗い   ・他の来館者との距離(1~2m)の確保   ・館内での会話を控える   ・混雑時に入館制限する場合があります。 なお、当館スタッフはマスク着用などの衛生対策及び健康観察を行い、業務に従事いたします。 ご不便をおかけしますが、来館される皆様が、安全に、安心して当館をご利用いただけるよう、ご理解とご協力をお願いいたします。 6月1日に皆様にお会いできることを楽しみにしてお待ちしております。  

亀ノ倉池(フラワーセンター内の歴史遺産2)

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フラワーセンターの中央に位置する亀ノ倉池。面積約7㌶(甲子園球場約5個分)の農業用ため池です。本来なら五月の空をこいのぼりが泳いでいるはずだったのですが・・・ 野生の水鳥も去り、静かな水面をフラワーセンターのマスコットあひるちゃんが寂しく泳いでいます。 2009年 国土地理院撮影 兵庫県は全国一のため池王国。当館が所在する加西市もため池が多く、特にフラワーセンター周辺は台地縁辺の谷をせき止めたため池が密集しています( 矢印が亀ノ倉池)。 ため池は農閑期に水を干します。数十年前、播磨地域の旧石器・縄文時代の人々の痕跡を明らかにするため、考古学研究者が干上がったため池を踏査し、多くの石器が採集されました。 亀ノ倉池の底からも縄文時代前期(約7000年前)の石鏃(せきぞく:石製矢じり)などが、また旧石器時代(約2万年前)の石器も採集され、 亀ノ倉遺跡 として周知されました。 亀ノ倉遺跡採集の石器(縄文時代) 加西市 2010年『加西市史第7巻 史料編Ⅰ 考古』から引用 満々と水を貯える亀ノ倉池ですが、実は水深は浅く、もとは山から続くなだらかな地形でした。山が季節風を遮り、南に開けるこの地は、人々の活動に適した場所だったと想像できます。 危険防止のため池への立ち入りはできませんが、池の周囲約1.3㎞は周遊路が整備されています。古代鏡展示館、フラワーセンターが再開したら、ぜひ花と緑を見ながらウォーキングをお楽しみ下さい。

漢字の歴史

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新型コロナウィルス感染防止のため、学校の臨時休校から2ヶ月が過ぎました。思い起こせば、希望や不安を抱えて進級・進学したこの時期、ノートにひたすら書く漢字の練習が苦痛だったのを思い出します。 今回は我々になじみ深い漢字の歴史とともに、当館所蔵の古代中国鏡に記された文字(漢字)をご覧いただきます。 漢字は、文字どおり古代中国で発生した文字。伝説では、最初の王である黄帝に仕えた 蒼頡 (そうけつ)が砂浜に残る鳥の足跡を見て創作した、とされています。蒼頡は優れた観察力から4つの目がある姿で描かれ、後漢時代の神獣鏡にも登場します。 鍍金同向式神獣鏡 (後漢 図156) 蒼頡と考えられる図像(左の人物) 考古学で文字が確認できるのは、商(殷)の時代(前1300年頃)。占いに用いた骨や甲羅に刻まれた 甲骨文字 (こうこつもじ)が最初です。続く周の時代(前1000年頃)には青銅器に記された文字( 金文 :きんぶん)がありました。この頃の文字は絵文字のような象形文字でした。 当館のロゴマークは、 西周時代の金文を図案化したもの。容器の水に映る自分の姿を大きな目で見る様子を象っています。この文字が「監」、そして「鑑」になります。 社会が発展し、文字を書く必要性が増大すると、象形文字は書きやすい字形に改良されます。秦の時代(前200年頃)には文字の統一が行われ、今日の 篆 (てん) 書体 のもとになる 小篆 が公式書体になります。漢の時代にかけて 隷 (れい) 書体 が現れます。 鏡に文字が記されるのは、前漢の時代(前2世紀の中頃)から。 鏡の銘文に表された書体は、篆書体や隷書体とは異なる書体や略字もあります。 異体字銘帯鏡 (前漢 図105) 銘文の一部「秋風起心甚悲」 漢字のもつ視覚的なデザインを強調しています。   鍍金方格規矩四神鏡 (新 図123) 銘文の一部                   「長保二親楽富昌」 隷書体を改良した 楷 (かい) 書体 が、隋から唐の時代(6世紀)頃までに成立します。 瑞花対獣紋鏡 (隋ー唐 図193) 銘文の一部                 「月似輪廻」 漢字は中国の対外政策の広がりとともに周辺国へ伝播し、漢字文化圏を形成しました。 ...

幻の色

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千石コレクションの銅鏡は、寄贈を受けて以降、考古学的研究とともに鏡の素性などを明らかにするために理化学的調査も行っています。今回はその成果の一端を紹介します。 彩絵人物車馬鏡 (前漢 図76)は、鋳造した後、鈕座や内・外区に塗彩している鏡です。外区には、赤、白、青、紫、緑の顔料を用いて貴族が狩猟や宴をする様子など4つの場面が描かれ、漢帝国全盛期の貴族の姿や習俗を見ることができます。 彩絵人物車馬鏡 (前漢 図76) 絵に使用された顔料の種類を調べるため、鉱物の成分を明らかにする X線回折 と、試料に含まれる元素の種類やその量を明らかにする 蛍光X線分析 を行いました。 その結果、淡い紫色に塗彩された箇所(上下写真の矢印の箇所)からケイ酸バリウム銅が検出されました。 漢紫が用いられた箇所(上写真の拡大) ケイ酸バリウム銅は自然界に存在しない、人為的に合成されたもの。 漢紫 という顔料です。漢紫は秦から漢の時代に壁画や器物の彩色に用いられましたが、その後途絶えてしまう幻の顔料です。 彩絵人物車馬鏡は企画展「美と微」にて展示しています。 開館の際は、今日存在しない幻の古代の色彩をぜひご覧下さい。 参考文献:兵庫県立考古博物館 2017年『千石コレクションー鏡鑑編ー』      兵庫県立考古博物館 2018年『兵庫県立考古博物館研究紀要』第11号

最古級の銅鏡

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千石コレクションの筆頭、図録番号1は 緑松石象嵌鋸歯縁鏡 。その姿形は他作品とは異なっています。所属時期も唯一無二の存在。 緑松石象嵌鋸歯縁鏡(二里頭(夏) 図1 右はX線写真) 所属時期の「 二里頭 (にりとう)」とは、河南省洛陽市近郊所在の二里頭遺跡の名を冠した文化の名称。20世紀半ば以降の調査で、宮殿をもち、本格的な青銅生産が始まる、殷の時代より古い文化の存在が明らかになりました。 殷の時代を遡ることから、中国では、前漢の時代に司馬遷(しばせん)が記した『史記』の中で、神話時代に続き、後に殷に滅ぼされる最初の王朝 夏 (か)に比定されています。 しかし、夏王朝の記述は『史記』など後世の文献のみ。二里頭文化には文字が認められません。したがって、二里頭文化=夏王朝と断定することが難しいのです。 日本では殷を遡る王朝の存在を認めつつ、それが夏王朝なのか慎重に研究しています。 さて、緑 松石象嵌鋸歯縁鏡は数ある展示品の中でほぼ唯一鏡面を展示。鏡面には緑松石(トルコ石)をはめ込み、人のような、矢のような不思議な紋様を表現しています。周縁は歯車や草刈り機の刃みたいと言われる形が特徴。 紋様に囲まれた中央の円い部分を研磨し、儀式に用いたと考えられます。 周縁の形は、山東省陶寺(とうじ)遺跡出土の銅環(前2000年頃)と、トルコ石のはめ込みは二里頭遺跡出土の銅円盤(前17世紀)と類似します。そこで、この鏡は前17~16世紀に黄河流域の二里頭文化の下で制作されたものと考えています。 普段は展示しない鏡背面です。中央からやや偏った位置(矢印)に鈕があります。 参考文献:兵庫県立考古博物館 2017年『千石コレクションー鏡鑑編ー』      兵庫県立考古博物館 2018年『兵庫県立考古博物館研究紀要』第11号

飯盛山(フラワーセンター内の歴史遺産1)

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新型コロナウィルスのため古代鏡展示館と県立フラワーセンターは臨時休館・園しています。1年で一番賑わう花の季節に人影がないのは違和感を感じます。池の水鳥や魚は静寂の中でくつろぎ、時折通る関係者の姿に驚いています。 普段は様々な花を見ることができるフラワーセンター。その北西側に古代鏡展示館があります。花が咲き誇る園内は、歴史遺産に恵まれた場所でもあります。今回はセンター内にある歴史遺産の1つ、「飯盛山」を紹介します。 当館(矢印)の背後の山が飯盛山。標高123m、ふもとからの高さは約50m、山というより丘と言った方がよいくらいの大きさです。 この小さな山は、奈良時代に編纂された『播磨国風土記』の「賀毛郡楢原里」に記載された「飯盛嵩(いいもりだけ)」に比定されています。 『風土記』によると、飯盛嵩の名は、大汝命(オオナムチノミコト=オオクニヌシノミコト)がご飯を山の高さに盛ったことに由来するそうです。(原文「大汝命之御飯 盛於此嵩 故曰飯盛嵩」) 西から見た飯盛山は、ご飯を盛ったような丸みをもった山容。周りに高い山がなく、小さくても印象的な姿です。 当館から徒歩約15分で山頂へ。遊歩道が整備され、山頂近くには展望台もあります。 展望台から南を見ると、彼方には『風土記』に飯盛嵩と並んで記載される「粳岡(ぬかおか)」に比定される糠塚山(矢印)が整った山容を見せています。ふもとには大きなため池と水田が広がっていますが、100年以上前は一帯が山林・原野でした。 古代の人々にとっての飯盛山は、その姿からランドマークとして意識され、『風土記』に記載されたのかもしれません。 山頂には、古墳(飯盛山1号墳)もあります。当館へお越しの際、ぜひ、登山にチャレンジして下さい。