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龍と虎

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12月7・8日の2日間、全国からクラシックスポーツカー約100台が姫路に集結、淡路島まで走破するラリーイベント「コッパディ姫路」が開催されました。 古代鏡展示館のある県立フラワーセンターも立ち寄りポイントの1つ。12月7日のお昼ごろには館の前に多くの名車が集結しました。 参加者の中にはクレージーケンバンドのボーカル横山剣さんの姿も。古代鏡展示館へご来館いただきました。 横山剣さんは車好きとして有名ですが、実は龍にも強い思い入れがあるそうです。そういえばクレージーケンバンドには「タイガー&ドラゴン」という曲がありましたね。 古代中国鏡にも「タイガー&ドラゴン」、龍と虎の図像が表されたものがあります。      盤龍鏡(後漢:図159)   盤龍鏡に表された虎(左)と龍(右)    企画展「龍 翔る!」にて展示中 約2千年前の盤龍鏡に表された龍と虎は、歯をむき出して互いに威嚇しているようにも見えます。この龍と虎の正体は、東西南北を象徴する四神の中の青龍と白虎と考えられています。 四神は各方位を象徴するほか、玄武と朱雀で陰陽を調和させ、青龍と白虎で不幸を除去する働きがあったようです。つまり、龍と虎は争っているのではなく、協力して不幸を遠ざけるために働き、結果として鏡の所有者に幸せをもたらす、という意味があるのです。猛々しい生き物の龍と虎が恐ろしい形相でにらみ合っていたら、不幸をもたらす魔物も近づこうとは思わないでしょうね。 日本で龍と虎といえば、戦国時代の武将である武田信玄と上杉謙信のように実力が伯仲したライバルが張り合うたとえに用いられます。同じ龍と虎でも日本と中国では、その意味するところが異なっています。 残念ながらスケジュールの都合で横山剣さんに展示はご覧いただけませんでした。 いつの日か、かっこいいスポーツカーで再びご来館されるのをお待ちしています。

龍のウロコ

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古代鏡展示館は県立フラワーセンター内にあるため、様々なお客様が来館されます。一見歴史と縁遠い工学部出身の技術者の方が決まって関心を示すのが唐の時代に制作された龍の鏡。 雲龍紋八花鏡(唐 図285) 企画展「龍 翔る!」にて展示中 お話をうかがうと、鋳造で龍の全身に施されたウロコのような表現を均一に施すことは現代の技術でも難易度が高い、とのこと。ものづくりに関わる者として、約1,300年の中国の鋳造技術に目を奪われるそうです。 ところで、龍のウロコのうち、喉元にある1枚のみ逆向きになっており、それに触れると穏やかだった龍は激怒して触れた者を殺すといわれています。これが目上の人の怒りを買う「逆鱗に触れる」の由来です。 本当にそうなっているのか当館にある銅鏡の中の龍を観察しましたが、残念ながら逆向きのウロコは確認できませんでした。 怒れば恐ろしい龍ですが、それを飼い馴らす者もいたそうです。 漢の時代の銅鏡や墳墓の壁石に描かれた絵(画像石)には龍と向き合う仙人が表現されているものがあります。龍に関わることから、この仙人こそ神話の中で夏の王である舜(しゅん)に仕え龍を養飼した豢龍氏(かんりゅうし)ではないかと考えられています。         盤龍鏡(後漢 図159)    龍(左)と豢龍氏?(右)              企画展「龍 翔る!」にて展示中 盤龍鏡をはじめ今回展示してある鏡に表された仙人は、龍の食物である霊芝(れいし)を差し出しているような姿で表現されています。 当館の展示では見られませんが、画像石の中には仙人が龍の喉元に触れているような姿で表現されたものがあるそうです。仙人は龍を激怒させずに手なずける術をもっていたのでしょう。 今回紹介した鏡は全て3月まで展示しています。鏡の中に表現された些細な物語を拡大鏡を用いてお確かめ下さい。 なお、12月17日で一部鏡の展示替えを行います。ぜひ、この機会にご来館下さい。 参考文献 廣川 守「鏡にみる文様」根津美術館学芸部編『中国の古鏡』2011年 根津美術館 設楽博己編『十二支になった動物たちの考古学』2015年 新泉社

今に生きる龍

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当館で開催中の企画展「龍 翔る!」では、古代中国の銅鏡などに表現された多様な龍の姿をご覧いただけます。 私たちのイメージする龍は古代中国で成立しました。その起源は5,000年以上前にさかのぼると考えられています。様々な動物の特徴を集め、長い体に四脚と角やひげをもつ龍のイメージが作り出され、時代とともにその姿は変化しています。皇帝の象徴となり、現在でも自国を龍になぞらえているほどです。 中国が周辺地域と交流する中で龍のイメージも銅鏡などの様々な文物を通して伝播し、それぞれの地域に受け入れられました。 日本には、約2,000年前の弥生時代に銅鏡に表現された四神の中の青龍として龍の姿が伝えられたと考えられています。 方格規矩四神鏡(図132 紀元1世紀)と細線で表現された青龍 (12月17日まで展示中) 日本人が受け入れた龍は、日本の思想・文化と融和し、その後近代に入ると西洋のドラゴンのイメージも加味されました。今日、日本人にとっての龍は、尊貴な存在ではなく昔話やコミック、ゲームなどを通して子供から大人まで身近に感じられる生き物です。 15世紀頃に成立した琉球王国も中国との国交の中で龍を受け入れ、国王の象徴としました。王宮である首里城内には様々な龍の工芸が施されていました。 10月31日に発生した首里城火災のニュースでは、焼失した正殿など主要な施設を見て、龍がいなくなった、と肩を落とす人がいました。その後焼失を免れた正殿前の大龍柱が「奇跡の龍柱」として注目されるのを見ると、龍が単に王国の象徴というよりも沖縄の人々にとって精神的なシンボルになっていたことがうかがえます。 中国の南に位置するブータンは別名「雷龍の国」と呼ばれています。その国王が平成23年に来日した際、訪問先の福島県相馬市の小学生に贈ったことばを最後に紹介しましょう。 「一人一人の中に龍はいる。その龍は何を食べているのか?皆の経験や体験を糧にして育っている。年を重ねるごとにその龍は強くなる。皆も自分の中にいる龍を大切に育んで下さい。」(外務省HPより)

即位礼にまつわる鏡

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10月22日は今年限りの祝日、天候も良く古代鏡展示館も賑やかな1日となりました。 この日は天皇が国内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」が行われました。今回は、これにまつわる鏡のお話。 即位礼の原型は少なくとも8世紀代までさかのぼるそうです。 天皇が即位を宣言する舞台となったのはが「高御座(たかみくら)」。このたび用いられたのは、大正天皇即位の際に古文書をもとに復元されたもの。壇の上に8本の柱を立て、八角形の天蓋(屋根)をのせる構造です。テレビではほとんど映りませんでしたが天蓋の頂上と隅に大小の鳳凰を配し、各辺の軒先に鏡が懸けられています。 寺院などでは、光の反射によって祭礼の荘厳さを高めるために同様に鏡を懸ける例が見られます。古代においては、儀礼の場で天皇の権威を高める効果が鏡に期待されていたのかもしれません。 22日の朝には、皇室行事として、天皇が皇祖神を祭る賢所(かしこどころ)など宮中三殿に即位礼を行うことを奉告する儀式「即位礼当日賢所大前の儀」が行われました。 賢所にはご神体として三種の神器の1つである「八咫鏡(やたのかがみ)」の形代(かたしろ:複製品)が納められています。「八咫鏡の形代」は儀礼に現れませんが、それを見守る特別な存在でした。 最後に、この秋県立フラワーセンターのコレクションに加わった洋ランを紹介します。 フラワーセンターが姉妹提携しているシンガポール植物園から贈られた洋ランの1種デンドロビウムでその名も「マサコ・コウタイシ・ヒデンカ」 平成5(1993)年、現天皇皇后両陛下のご成婚を記念して命名された(3つの品種の中から雅子様が選ばれた)もの。国内では宮内庁とフラワーセンターにしかない品種です。 「マサコ・コウタイシ・ヒデンカ」は10月末ごろまでフラワーセンター大温室で展示しています。

南極老人を知っていますか?

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秋分の日、せっかくの連休なのに天候不順で残念です。しかし、残暑も「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉どおり和らいで過ごしやすい気候になってきました。 古代中国、漢の時代の皇帝は、秋分の頃に天体観察をしていたそうです。皇帝が観測していたのは、 南極老人星 という星。ご存じですか? 聞き慣れない名前の星ですが、この星は天下太平の時には姿を現し、世情不安の時には見えない、と言われていました。皇帝はこの星を見つけて天下太平の世を祈るのでした。 南極老人星の正体は、りゅうこつ座のカノープスという星。カノープスは太陽を含めて全天で3番目に明るい恒星なのです。ただしカノープスは南半球では天高く明るく輝いているのですが、北半球では南の地(水)平線すれすれ、大気の影響を受けて暗く赤い星として辛うじて見えます。 北半球にある中国から見えにくい南極老人星ですが、別名「寿星」とも言われ、見つけると幸福と長寿、そして繁盛を得ると信じられて広く信仰を集めていました。 この南極老人星を象徴化した神が南極老人です。重列式神獣鏡(後漢)の最上段には南極老人、とされる神が四神のうち南を司る朱雀とともに表現されています。 重列式神獣鏡(図141) 朱雀(左)と南極老人とされる神(右) 幸福、長寿、繁盛をもたらす南極老人は、日本にも伝わり、七福神として親しまれる神々のうち福禄寿や寿老人のモデルになった、とも言われています。 南極老人星(カノープス)は、条件がよければ日本国内でも広い地域で見ることができるそうです。 これから空気が澄んでくる季節、目を凝らして南極老人星を探してみませんか。  

夏は鏡の季節!

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見学のお客様からよく「鏡はどのように作るのですか?」との質問をいただきます。 鏡は、紋様を施した土や石の鋳型に、「湯」と呼ばれる高温で赤く溶けた青銅(銅を主成分とし、スズや鉛を含んだ合金)を流し込む 鋳造 という方法で制作されます。さらに「湯」が冷えて固まった後に鋳型から取り出して整形、鏡面を丁寧に研磨することで白銀色に輝く鏡が完成します。 古代中国では、万物の生成は、木・火・土・金・水の5つの気が影響するという 五行思想 が信じられていました。銅鏡はその成分が「金」であり、制作には「火」が大きく関わります。「火」は季節は夏、色は赤を象徴し、「金」は季節は秋、色は白を象徴します。 鏡づくりの工程は暑い夏から秋への季節の移ろいにも重ね合わせられ、五行思想に基づくことでその内面に不思議な力が秘められていると考えたのです。 以前にも紹介しましたが、千石コレクションには「五月五日造」と記された鏡があります。五月は旧暦で夏=「火」に通じ、五(火)が重なることで鋳造に適した縁起の良い日を意味します。 八瑞獣紋鏡(図195)と「五月五日造」銘 千石コレクションにはありませんが、銅鏡の銘には制作日を「五月丙午」と表すことがあります。 「火」に通じる五に加えて干支で日を表した「丙午」(へいご・ひのえうま)の「丙」と「午」も「火」を象徴します。火の気が重なりその相乗効果が期待できる、鋳造を行うのに縁起のよい日と考えたのです。ただし、「五月五日」も「五月丙午」も鏡に秘められた性質をアピールする意味が強く、実際にその日に制作したのかはわかりません。 余談ながら、日本では丙午の年は火事が多いとか、この年に生まれた人は気性が荒いとの迷信がありました。これは古代中国の五行思想を誤って理解したためです。 梅雨も明け、いよいよ夏本番!暑い夏こそ鏡づくりに最適な季節です。 古代鏡展示館では、8月に低温で溶ける金属を用いてミニチュア(径約5.5㎝)の鏡をつくる古代体験講座「金属で鏡をつくろう」を開催します。夏の思い出にいかがでしょうか。  

安倉高塚古墳の鏡

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中国自動車道宝塚インターを降りて尼崎方面へ走り、「安倉」交差点を過ぎた住宅街の中に安倉高塚古墳はあります。古墳時代前期(4世紀末頃)の円墳(復元径十数m)ですが過去の工事で損壊し、今では墳丘と竪穴式石室の一部が残るのみ、気にしなければ通り過ぎてしまいそうな小さな古墳です。 しかし、この小さな古墳は、出土した銅鏡によってその名が広く知られています。         安倉高塚古墳(宝塚市)出土 赤烏七年対置式神獣鏡            (兵庫県立考古博物館蔵 県指定文化財) 銅鏡は竪穴式石室内から2面出土しています。そのうちの1面、放射状に神像や獣形を配した対置式神獣鏡の外区には銘文が時計回りに記されています。鋳上がりの悪さや錆のために判読は非常に困難ですが、同種の銅鏡などを参考に、下記のように復元されています。 「 赤烏七年 太歳在丙午 時加日中 造作明竟 百□漳 服者富貴 長楽未央 子孫・・」 銘文の前半は、良い時期に良い材料で制作した鏡であること、後半はこの鏡によって得られる効能を記しており、多くの鏡にみられる内容です。 冒頭の「赤烏(せきう)七年」は中国の三国時代、呉の年号で西暦244年にあたります。日本で呉の年号が記された銅鏡が出土しているのは、安倉高塚古墳と山梨県の鳥居原狐塚古墳(「赤烏元年」銘)の2例のみです。 では、呉の年号が記された鏡は、どのような意味があるのでしょうか。 中国の三国時代、魏と倭国の外交は『魏志』倭人伝によってよく知られていますが、魏と緊張関係にあった呉も周辺地域との外交に力を入れていたようです。 赤烏七年は魏の年号では正始4年にあたります。卑弥呼が魏に遣使し、「銅鏡百枚」などを下賜された「景初3年」(西暦239年)、下賜品を携えた使者が倭国に渡った「正始元年」(西暦240年)と同じ時代です。呉が倭国と関わった記録は全く残されていませんが、魏と同様に倭国となんらかの接触をもっていたかもしれないことを物語る銅鏡です。 今回紹介した銅鏡は、企画展「発掘された銅鏡 兵庫に伝わった鏡と文化」にて展示中です。9月10日(火)まで

展示室内の機械

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当館を見学されるお客様から、展示室内にあるこの機械は何ですか?とのご質問をいただきました。 中には「地震計?」とおたずねの方も。 正解は、「温湿度記録計」。展示室内の温度と湿度の変化を記録する機械です。 右側の部分で測定した温湿度を左側の用紙に記録しています。 展示室内は、1年中気温22℃、湿度50%前後で空調管理されています。 一定の温湿度で管理している理由は、お客様が快適に見学していただくためではありません。 博物館の仕事は、資料を多くの方々にわかりやすく見学いただくことですが、貴重な資料を未来へ継承していくことも重要な使命です。 当館の資料の大半を占める銅鏡をはじめとする金属は錆が大敵。そこで、錆による劣化の進行速度を鈍らせるため、金属が良好な状態を維持できる温湿度を設定しているのです。 とはいえ、気温22℃、湿度50%は、兵庫県では4月下旬頃のさわやかな気候とほぼ同じ。ぜひ心地よい空間で古代中国の人々の思いを感じて下さい。 また、フラワーセンター散策の際、夏のクールスポット、冬のホットスポットとしても当館をご利用下さい。

「令和」によせて

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4月で平成の時代が終わり、5月1日に令和元年が始まりました。 新元号「令和」の出典は『万葉集』からだそうです。 西暦730年(天平2)年1月、九州は太宰府長官であった大伴旅人の邸宅で梅の花見の宴が催され、そこで披露された和歌をまとめた序文の一節「初春の 令 月にして、気淑く風 和 ぎ」から引用されています。 序文はこの後に「梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす」と続きます。ここでは、当時まだ珍しかった梅花の白さを鏡の前にある白粉にたとえています。 鏡は、日本では弥生時代に伝わって以降、権威の象徴や宝器としての性格を帯びていました。しかし先進的な唐の文化や文物を積極的に摂取した7世紀以降、多くの唐鏡がもたらされ、それを模した国産鏡も制作されます。唐の文物を摂取する中で貴族の装いにも変化がみられ、鏡は本来の用途である化粧道具として用いられ始めます。 唐鏡を代表する海獣葡萄鏡は、奈良県に所在する高松塚古墳(7世紀末)、杣之内(そまのうち)火葬墓(8世紀初頭)などに副葬されていました。この時代の墳墓に副葬された海獣葡萄鏡は、権威の象徴という性格ではなく被葬者の生前の愛用品だった、と考えられています。   海獣葡萄鏡  左:高松塚古墳出土鏡と同型鏡(図221)  右:杣之内火葬墓出土鏡と同型鏡(図225)  万葉集に表された鏡が海獣葡萄鏡か不明ですが、中国では盛唐の時期にあたる8世紀前半、我が国の歌人がイメージした鏡は化粧の場にあるものとして共通認識できたのでしょう。 令和の時代も当館は、鏡やそれに関連する文化について情報発信してまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

月面探査と鏡

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2019年を迎えて早々、中国の無人探査機が世界で初めて月の裏側へ軟着陸に成功、というニュースが飛び込んできました。 21世紀に入り開始された中国の月面探査は「嫦娥(じょうが)計画」と呼ばれています。 嫦娥とは、月に住む仙女と紹介されていますが、物語では夫が入手した不老長寿の薬を盗んで月まで逃げたものの、罰として蟾蜍(せんじょ:ヒキガエル)にされたと伝えられています。古代の中国では、月を象徴する生き物が蟾蜍でした。 月に関する故事をモチーフにした月宮図鏡(唐)の中で、左手に盤を持ち、駆けている女性が 嫦娥だと考えられています。 月宮図鏡(図289)と 嫦娥 と推定される女性 今回、月の裏側に軟着陸したのは「嫦娥4号」で、そこから降り立った探査車の名は「玉兎(ぎょくと)」。玉兎とは皆様ご存じの月のウサギです。中国では蟾蜍とともに月にいると信じられていました。日本ではウサギは月で餅つきをしているとされていますが、本来は不老長寿の薬を作っているとされます。 月宮図鏡に表された玉兎 月の裏側に着陸した「嫦娥4号」は地球と直接交信できないことから、事前に「鵲橋(じゃくきょう)」という名の通信中継衛星も打ち上げました。以前のブログでも紹介しましたが、鵲(かささぎ)は七夕の夜に天の川に橋を架け牽牛と織女を取り持った鳥。この故事にちなみ、「嫦娥4号」と地球との通信を橋渡しする役割から命名されたのでしょう。 唐の時代に制作された 月宮双鵲銜綬龍濤紋八花鏡には、 今回の探査機器のルーツがすべて表現されています。 月宮双鵲銜綬龍濤紋八花鏡(図290) 鏡背面に月、鵲、龍の3つの吉祥の図像を集約させたおめでたい鏡です。鈕を挟んだ左右の鳥が鵲、その上の円い月の中に嫦娥が姿を変えた蟾蜍と玉兎が表されています。 地球に最も近く、夜最も明るく輝く天体である月。そして常に姿を変える月に対し人類は古くから関心を注ぎました。国家が威信をかけて最先端技術を投入する月面探査ですが、中国に限らず探査機などの名称は月に関する神話や故事にちなんで命名されています。 鏡にも表された伝説や神話が現代にも息づいていることを感じるニュースでした。 今回紹介した2面の鏡は、企画展「唐王朝の彩り 宮廷の栄華をうつす金銀銅」にて展示中。会期は3月12日(火