「令和」によせて

4月で平成の時代が終わり、5月1日に令和元年が始まりました。
新元号「令和」の出典は『万葉集』からだそうです。
西暦730年(天平2)年1月、九州は太宰府長官であった大伴旅人の邸宅で梅の花見の宴が催され、そこで披露された和歌をまとめた序文の一節「初春の月にして、気淑く風ぎ」から引用されています。
序文はこの後に「梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす」と続きます。ここでは、当時まだ珍しかった梅花の白さを鏡の前にある白粉にたとえています。

鏡は、日本では弥生時代に伝わって以降、権威の象徴や宝器としての性格を帯びていました。しかし先進的な唐の文化や文物を積極的に摂取した7世紀以降、多くの唐鏡がもたらされ、それを模した国産鏡も制作されます。唐の文物を摂取する中で貴族の装いにも変化がみられ、鏡は本来の用途である化粧道具として用いられ始めます。
唐鏡を代表する海獣葡萄鏡は、奈良県に所在する高松塚古墳(7世紀末)、杣之内(そまのうち)火葬墓(8世紀初頭)などに副葬されていました。この時代の墳墓に副葬された海獣葡萄鏡は、権威の象徴という性格ではなく被葬者の生前の愛用品だった、と考えられています。
 
海獣葡萄鏡
 左:高松塚古墳出土鏡と同型鏡(図221)  右:杣之内火葬墓出土鏡と同型鏡(図225) 


万葉集に表された鏡が海獣葡萄鏡か不明ですが、中国では盛唐の時期にあたる8世紀前半、我が国の歌人がイメージした鏡は化粧の場にあるものとして共通認識できたのでしょう。

令和の時代も当館は、鏡やそれに関連する文化について情報発信してまいります。どうぞよろしくお願いいたします。