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冬の夜に

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 暦の上では「雨水」を過ぎましたが、寒さの厳しい日が続きます。 朝起きると空気の乾燥でのどが痛いことはありませんか? のどの不快感は古代中国の人々も現代人も同じだったようです。 ミニチュアの 唾壺 (だこ) (南北朝時代:6世紀頃) 高さ6.5㎝ 第2展示室にて展示中 口が大きく開き、胴部が扁平な形のこの壺は 唾壺 (だこ)と呼ばれています。文字通り唾(つば)や痰(たん)をこの中に吐くためのもので、漏らさず受けるように口が開いているのでしょう。このような形の唾壺は後漢時代(紀元2世紀)頃に出現し、青銅製のほかに陶製のものもあったようです。 日本でも一昔前には公衆衛生を目的とした痰壺(たんつぼ)というものが街角などにありましたが、唾壺は寝室に置かれて私的に用いるものでした。大陸の冬は寒さも厳しく、空気も乾燥します。のどの痛みで目が覚めても、唾や痰を吐くために寝床から離れることは避けたいのでしょう。漢時代の高貴な人物には唾壺を取り扱う使用人が付いていたそうです。 当館所蔵の唾壺は、墳墓に副葬するために制作されたミニチュアで実用品ではありません。しかし、わざわざ死後の世界にまで持ち込むほど実生活に欠かすことのできないものだったといえるでしょう。 響銅ミニチュア明器 唾壺 

妖怪退治の鏡

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みなさまお元気でお過ごしでしょうか? 2025年最初の投稿になります。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 令和7年(2025年)の 干支は「巳」(み/シ) 。 十二支に割り当てられた動物、「十二生肖(じゅうにせいしょう)」でいうと 「蛇・ヘビ)」 にあたります。 現在開催中の 古代鏡展示館の令和6年度冬季スポット展示(令和7年1/4~3/9) では、ヘビの図像が表されている 「四神十二支紋鏡(ししんじゅうにしもんきょう)」を取り上げ、ヘビにちなんで「 妖怪・大蛇(だいじゃ)を退治する鏡!?」 として注目しています。 四神十二支紋鏡に表された蛇 四神十二支紋鏡(図録184/隋‐唐/直径24.8㎝・重量2,132g/当館蔵) 鏡が大蛇を退治する話については、このスポット展示の期間中にご観覧された方に配布している解説資料に記載しておりますので是非ご来館ください。 ※解説資料についてはスポット展示終了後に当館公式HPへの掲載を予定しています。 それでは、なぜ四神十二支紋鏡を妖怪・大蛇を退治する鏡としてスポット展示で注目しているのでしょうか? このブログ記事では、四神十二支紋鏡と「妖怪退治の鏡」についてみていきたいと思います。 (1)『古鏡記』にみえる妖怪を退治する鏡 7世紀(隋時代末~唐時代初め)に成立したとされる伝奇小説『古鏡記』(こきょうき)には、妖怪を退治する鏡として「古鏡(こきょう)」が登場します。 小説の作者は王度(おうたく)〈582年頃~625年頃(内田・乾1971)〉という人物ですが、小説の主人公の一人でもあります(※1)。 物語は、王度が仕えていた師から「古鏡」を譲り受けたところから始まり、隋・大業七年(611年)から大業十三年(617年)までの間に起こった古鏡にまつわる不思議な出来事が描かれています。その中には鏡を持って赴いた先々で妖怪・変化を退治するストーリーがあり、そのエピソードのひとつに大蛇退治の話があります。 以下に、『古鏡記』冒頭の一部を抜粋します。(※2-1) 【原文】隋汾陰侯生、天下奇士也。王度常以師禮事之。臨終、贈度以古鏡曰。持此則百邪遠人。度受而寶之。 【訓読】隋の汾陰(ふんいん)の侯生(こうせい)は、天下の奇士なり。王度(おうたく)は常に師礼(しれい)を以て之に事(つか)ふ。終りに臨んで、度(たく)に贈るに古鏡を以てして曰く、此を持...

鏡にあらわされた龍と雲

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みなさまお元気でお過ごしでしょうか? 2024年(令和6年)12月、辰年もまもなく終わろうとしています。 今年の初めに干支の辰年にちなんでご紹介しました 雲龍紋八花鏡(図録283)の記事 では、 雲龍紋八花鏡 (うんりゅうもんはっかきょう)の図像と 『易経』の「雲従龍、風従虎(雲は龍に従い、風は虎に従う)」 について取り上げました。 そこでは、 龍と雲は”類友” といえ、鏡に描かれた雲の紋様「飛雲紋(ひうんもん)」は、めでたい兆しを表わす雲、 「景雲(けいうん)」(=瑞雲・慶雲)を表わす というお話をしました。 辰年の最後に取り上げるのは、 秋季企画展『龍虎の鏡』で展示中の、雲龍紋八花鏡(図録284)と、「龍と景雲」について です。(前の記事とほぼ一緒やん!) 雲龍紋八花鏡(図録284/唐 8c/径15.8cm/重598g) ★令和6年度秋季企画展『龍虎の鏡』にて展示(令和6年12月19日まで) ※前回記事の雲龍紋八花鏡(図録283)と同じように見えますが、見比べると龍と雲の表現だけでなく様々な違いが見えてくると思います。鏡の縁の形とかも少し違いますよ。 雲龍紋八花鏡(図録284)の龍と景雲の表現 雲龍紋八花鏡(図録283)の龍と景雲の表現 ★令和6年度秋季企画展『龍虎の鏡』にて展示(令和7年3月9日まで) さて、前回記事では、龍と景雲の関係を示す文献として、唐時代の孔穎達(くようだつ)〈574~648年〉が『易経』文言伝を解説した『周易正義』に記した 「 龍吟則景雲出 (龍吟ずれば則ち景雲出づ)」、 「 虎嘯則谷風生 (虎嘯(うそぶ)けば則ち谷風生ず)」を取り上げました。 実は、これよりも 龍と景雲の関係を示す古い文献として『淮南子 (えなんじ) 』 という漢時代の思想書があります。※『淮南子』:前漢中期(前2c中葉)の劉安の編纂 ●『淮南子』天文訓  には、次のように説明されています。 「物類相動、本標相応。故・・・。 虎嘯而谷風至、龍挙而景雲属 。」 【読み下し】 物類相動き、本標(ほんひょう)相応ず。故に・・・。 虎嘯(うそぶき)て谷風至り、龍挙(あが)りて景雲(けいうん)属(あつま)る。 【意訳】 万物のはたらきは、本と末(本質とその現象)とが相応じている。ゆえに・・・・。 虎が吼えると谷風が吹き、龍が天に昇ると景雲(瑞雲=めでたい兆しをあらわす雲)が集ま...

「臨時開催!考古博 秋祭り」に参加

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 令和6年11月2日(土) 県立考古博物館および隣接する大中遺跡を会場に開催される「大中遺跡まつり」は、 大雨と強風のため中止となりました(涙)。 が、 兵庫県立考古博物館において、 「考古博 秋祭り」 が 臨時開催 されました。 七つのブースでの開催となり 古代鏡展示館も古代体験ブースとして 「龍 の冠 づくり」 (りゅうのかんむり) で参加しました!! 当日は、大雨にも負けず多くの方のご来館をいただきましたので、 当館のブースも終始賑わい、大人から子どもまでたくさんの方にご体験いただきました。 足下の悪い中、お運びいただき感謝、感謝です。 冠(かんむり)づくりは、 「龍が描かれた台紙を切って、頭のサイズに合わせた帯に貼り付け、冠とする。」 ものですが、皆様とてもお上手なうえ手早く製作され、恐れ入りました。 事前にスタッフとして数個作成したのですが、参加者の作品には到底およびません。 特に、小さなお子様のハサミさばきとスピードには驚きました。 できあがりの冠を頭に付けられた時の嬉しそうな笑顔が忘れられません。 とてもいい笑顔でお写真を撮らせていただきましたが、 今回のブログでは、完成作品と会場準備の写真を掲載いたします。 「龍の冠づくり」は、また次回どこかで行いますのでお楽しみに!!

虎を象った器

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 今回は当館所蔵品の中から虎にまつわる作品を紹介します。その名は 虎子 (こし)。 さて、この作品の用途は何でしょうか? ミニチュアの 虎子 (南北朝時代:6世紀頃) 高さ6.0㎝ 第2展示室にて展示中 この器の用途は明かではありませんが、形から男性用の尿瓶(しびん)とするのが有力です。 古代中国の家にはトイレがありましたが、寝室に置かれて夜間寝ている時に尿意をもよおした時などに用いたと考えられています。 虎のような動物を象ったものが多いのですが、その理由はわかりません。 写真の虎子は墳墓に副葬される 明器 (めいき)と考えられ、前回紹介した投壺(とうこ)などとセットになっています。死者が冥界で生活するうえで必需品の1つだったのでしょう。 余談ですが、幼児が用いる便器を「おまる」と呼びますが、漢字では「御虎子」とも書くそうです。今日の日本にまでその名が残っているんですね。

投壺って何だ?

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 平安時代を舞台にしたテレビドラマの中で、主要人物が壺に向けて矢を投げて遊ぶ場面がありました。 これは中国にルーツをもつ 投壺 (とうこ)というゲームです。 離れた場所から壺に向けて矢を投げ入れ、その数を競うもので、今日の輪投げのようです。 春秋戦国時代頃には存在し、細かなルールも定められていたようです。主に宴席で遊ばれ、負けた者は罰として酒を飲まされたりしたので、きっとゲームは盛り上がったことでしょう。 さらに投壺は中国周辺国にも伝わり、日本では正倉院に投壺とそれに用いる矢が残されています。 当館のコレクションの中にも投壺があります。 それは、死者が死後の暮らしの中で用いるものとして墳墓に副葬されたと考えられる 響銅ミニチュア明器セット の中にあります。 ミニチュアの 投壺 (南北朝時代:6世紀頃)高10.8㎝ 第2展示室にて展示中 扁平な胴部から長い頸がのびる形が特徴の壺。口縁部から板状の突起が上にのびています。ここをめがけて矢を投げたのでしょうか。 被葬者はきっと生前投壺を楽しんでいた人物。死後も副葬された投壺で楽しい日々を過ごしていたのでしょう。

平安人が手にした鏡

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 平安時代を舞台としたドラマが放映されています。 少し前のことですが、ドラマの中で主人公の女性が夫から鏡をプレゼントされ、 その鏡を手にして顔を映すシーンがありました。 今回はこの鏡についてさぐってみましょう。 ちらっと映った鏡背面などから以下の情報が読み取れました。 ・径20㎝弱の円鏡である ・鏡背面の縁部が垂直に高く立ち上がっている ・鏡背面に紋様はあまり認められないが、浮き彫りの体をくねらせた動物のような図像が確認出来る ・鏡体の色は黄色あるいは茶色を呈している さらに物語の舞台は平安時代中期で、このシーンは10世紀末頃のこと。中国では唐王朝の滅亡から分裂の時代を経て北宋がが中国を統一した時代です。 鏡の縁部が垂直に立つ形状やわずかに確認できる動物のような浮き彫りの図像の形から、この鏡は 海獣葡萄鏡 (かいじゅうぶどうきょう)であると考えます。映像を見る限り、海獣葡萄鏡の鳥や昆虫が飛ぶ外区を除外し、海獣(獅子)が躍動する内区をトリミングしたようにも見えます。 海獣葡萄鏡は唐時代の7世紀中頃~8世紀前半に流行し、飛鳥・奈良時代を通して日本にも数多くもたらされました。 唐時代以降も復古的なデザインの鏡として継続して制作され、日本でも模倣して制作されます。平安時代は遣唐使廃止を経て唐の文物の流入が滞り、銅鏡も唐鏡を模しながら、図像・紋様が和式化していきます。しかし10世紀末頃はまだ唐の様式を色濃く残した鏡があっても矛盾がない時代といえます。 7世紀に制作された海獣葡萄鏡(図221)径16.6㎝ 錫の濃度は約25%で鏡体は白銅(銀)色を呈しています 鏡体が黄色あるいは茶色であるのは、銅鏡の原料である青銅(銅、錫(すず)、鉛の合金)に含まれる錫の濃度が低いことを示しています。唐時代以前の銅鏡は、海獣葡萄鏡をはじめ錫の濃度が高く銀色(白銅色)をしています。唐の全盛期を過ぎた8世紀後半以降に制作された銅鏡は錫の濃度が低くなる傾向にあり鏡体が黄色や赤銅色をしています。 唐時代より後の時代に制作されたと推定される海獣葡萄鏡 (図210)径20.6㎝ この鏡は錆に覆われていますが、地金部分は黄味がかかった色調です。化学分析によると錫の濃度は約9%でした。 また日本国内で制作された鏡も中国鏡と比較して錫の濃度が低い傾向にあります。 中国鏡の入手が困難となった時期であることを...

モモの話

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 現在、春季企画展「漢代の人々 -姿と想い-」を開催しています。 今回は展示している画像鏡の図像についての話です。 画像鏡 (図147 後漢) 企画展「漢代の人々  -姿と想い-」にて展示中 この鏡は背面に神仙世界を平たい浮き彫りで表しています。左側に西王母、右側に東王父、上に馬車の図像があり、下に踊る女性の仙人(仙女)がいます。 仙女の顔の左側に表されているものはモモの実と考えられています(写真矢印部分)。 踊る仙女(部分:X線写真) なぜモモの実が表されているのでしょうか。 モモは通常の食用のほかに種子は薬としても用いられてきました。また画像鏡のモチーフにもなっている神仙世界の植物として長寿を象徴する縁起のよい植物、魔除けの効能もあると信じられていました。 鏡背面に表されたのも神仙とともに鏡の所有者に幸福をもたらすことが期待されていたのかもしれません。 モモは日本に弥生時代以降に伝わり、遺跡からはしばしばその種子が廃棄とは異なる状態で出土します。『記紀』には、黄泉の国でイザナミの姿に恐れをなして逃げるイザナギが黄泉の国と現世の境界に生えるモモの実を投げ、黄泉の国の神を退ける物語が記されています。中国文化の影響を受けていた日本でもモモは魔除けの力を有する植物と信じられていたことがわかります。 これからモモのおいしい季節。デザートとして口にする時、こんなエピソードがあることを思い出してみて下さい。

異体字銘帯鏡を読む2  古代中国の名前

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異体字銘帯鏡(いたいじめいたいきょう)は漢字のもつ視覚的なデザインを強調した鏡で、紀元前1世紀頃に流行します。前回紹介した 異体字銘帯鏡(昭明鏡) の銘文をもう一度見てみましょう。 内請質以昭明、 光輝象夫日月。 心忽穆夫願忠、 然壅塞夫不 泄 。 この銘文は、紀元前2世紀後半頃に制作された銅鏡に登場し、紀元前1世紀代に盛んに用いられます。今回注目したいのは、第4句の最後の文字「 泄 」です。 異体字銘帯鏡(昭明鏡)の中の「泄」の文字 (向きを正位置に修正) 「泄」は「せつ」と読み「とおる」の意味がありますが、同じ銘文をもつ別の銅鏡の中には「徹」と記す例があります。同じ銘文で「泄」と「徹」の異なる文字が使われるのは、古代中国の名前に関するルールのためと考えられています。 古代中国の人々にも「姓+名」の名前がありました。 例えば、『三国志 』の主要人物である諸葛孔明(しょかつこうめい)は、諸葛亮(しょかつりょう)という名前も知られています。「諸葛」は姓で、2種の名のうち「亮」は本名にあたります。古代中国において「名」は霊的な意味があるものと信じられ、親や上司など目上以外の者が「名」を呼ぶことはタブーとされました。そこで、日常に用いる親しみや敬意をもった呼び名として「字(あざな)」が用いられます。「孔明」は、この「字」です。 「名」に関するルールの中でも皇帝の「名」に関しては厳格です。口にすることはもちろん、同じ文字の使用も禁じられ、同じ意味の別の文字に置き換えられることになります。 前漢の全盛期を築いた第7代皇帝武帝(ぶてい)の姓名は「 劉徹 (りゅうてつ)」。皇帝の名と同じ「徹」の文字は使用できないため、上記の銘文が本来用いた「徹」は同じ意味の「泄」に置き換えられることになります。つまり銘文に「泄」が用いられたこの銅鏡は、武帝が在位した紀元前141年~紀元前87年の間に制作されたものと考えられるのです。 この銅鏡は、春季企画展「漢代の人々-姿と想い-」で展示中。どうぞご覧下さい。

異体字銘帯鏡を読む1 5月5日によせて

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 異体字銘帯鏡(いたいじめいたいきょう)は漢字のもつ視覚的なデザインを強調した鏡。 写真の鏡の鏡背面には銘文が内外2重に巡っています。 異体字銘帯鏡(昭明鏡)  前漢 図107 企画展「漢代の人々-姿と想い-」にて展示中 このうち外側には以下の詩が記されています。 内請質 以 昭明 、 内は請(清)質にして以(もっ)て昭明なり、 光輝象 夫 日 月 。 光輝は夫(か)の日月に象(に)たり。 心忽揚 而 願忠 、 心は忽穆(こつぼく)として忠を願う、 然壅塞 而 不 泄 。 然(しか)れども壅塞(ようさい)して泄(とお)らず。 詩の内容は、主君に対する忠誠を持ちながら、その気持ちが受け入れないられない、というもの。 この詩には元ネタがあるとされています。それは長江の中流域にあった楚(そ)の国の歌謡等を集めた古代中国を代表する詩集の 『楚辞 (そじ) 』。 まず詩の形に注目すると、前半の3字(赤文字の部分)と後半の2字(青文字の部分)を「以」、「夫」、「而」の1字でつなぎ、2句目と4句目の最後の漢字は「月(getu)」と「泄(setu)」で音を揃えています。これらの特徴は『楚辞』の詩の形と共通します。 『楚辞』の中の代表作である 「離騒 (りそう) 」 をはじめ主要作品を作ったとされるのが 屈原 (くつげん)という人物、ご存じでしょうか。歴史書である『史記』によると、屈原は戦国時代の楚の王族の一人で、詩作にも優れていた人物。同僚の嫉妬から陥れられ、王から遠ざけられ、失意の中で「離騒」を作ったとされます。そして王が自分に振り返ることがないことに絶望し、紀元前278年5月5日に長江の支流に身を投げたそうです。「離騒」は、誇り高い主人公が現世で不遇な扱いを受け、安住の地を求めた天上界でも不遇が続き、さらに至高の世界へと旅する物語。屈原の人生と重なり、鏡の銘文とも通じるものがあります。 この銘文をもつ銅鏡が制作されたのは前漢時代の紀元前1世紀の半ば頃、屈原の生きた時代から100年以上過ぎています。しかし、『楚辞』の中の純粋な心を持ちながら、主君や他人に認められない悲しい気持ちは前漢時代の人々も共感を覚え、鏡の銘文として採用されたのでしょう。その後も屈原の名は、主君に対する純粋な心を持つ者として現代に至るまで受け継がれています。 屈原の死後、人々はその霊を慰めるため葉で包...