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虎を象った器

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 今回は当館所蔵品の中から虎にまつわる作品を紹介します。その名は 虎子 (こし)。 さて、この作品の用途は何でしょうか? ミニチュアの 虎子 (南北朝時代:6世紀頃) 高さ6.0㎝ 第2展示室にて展示中 この器の用途は明かではありませんが、形から男性用の尿瓶(しびん)とするのが有力です。 古代中国の家にはトイレがありましたが、寝室に置かれて夜間寝ている時に尿意をもよおした時などに用いたと考えられています。 虎のような動物を象ったものが多いのですが、その理由はわかりません。 写真の虎子は墳墓に副葬される 明器 (めいき)と考えられ、前回紹介した投壺(とうこ)などとセットになっています。死者が冥界で生活するうえで必需品の1つだったのでしょう。 余談ですが、幼児が用いる便器を「おまる」と呼びますが、漢字では「御虎子」とも書くそうです。今日の日本にまでその名が残っているんですね。

投壺って何だ?

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 平安時代を舞台にしたテレビドラマの中で、主要人物が壺に向けて矢を投げて遊ぶ場面がありました。 これは中国にルーツをもつ 投壺 (とうこ)というゲームです。 離れた場所から壺に向けて矢を投げ入れ、その数を競うもので、今日の輪投げのようです。 春秋戦国時代頃には存在し、細かなルールも定められていたようです。主に宴席で遊ばれ、負けた者は罰として酒を飲まされたりしたので、きっとゲームは盛り上がったことでしょう。 さらに投壺は中国周辺国にも伝わり、日本では正倉院に投壺とそれに用いる矢が残されています。 当館のコレクションの中にも投壺があります。 それは、死者が死後の暮らしの中で用いるものとして墳墓に副葬されたと考えられる 響銅ミニチュア明器セット の中にあります。 ミニチュアの 投壺 (南北朝時代:6世紀頃)高10.8㎝ 第2展示室にて展示中 扁平な胴部から長い頸がのびる形が特徴の壺。口縁部から板状の突起が上にのびています。ここをめがけて矢を投げたのでしょうか。 被葬者はきっと生前投壺を楽しんでいた人物。死後も副葬された投壺で楽しい日々を過ごしていたのでしょう。

平安人が手にした鏡

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 平安時代を舞台としたドラマが放映されています。 少し前のことですが、ドラマの中で主人公の女性が夫から鏡をプレゼントされ、 その鏡を手にして顔を映すシーンがありました。 今回はこの鏡についてさぐってみましょう。 ちらっと映った鏡背面などから以下の情報が読み取れました。 ・径20㎝弱の円鏡である ・鏡背面の縁部が垂直に高く立ち上がっている ・鏡背面に紋様はあまり認められないが、浮き彫りの体をくねらせた動物のような図像が確認出来る ・鏡体の色は黄色あるいは茶色を呈している さらに物語の舞台は平安時代中期で、このシーンは10世紀末頃のこと。中国では唐王朝の滅亡から分裂の時代を経て北宋がが中国を統一した時代です。 鏡の縁部が垂直に立つ形状やわずかに確認できる動物のような浮き彫りの図像の形から、この鏡は 海獣葡萄鏡 (かいじゅうぶどうきょう)であると考えます。映像を見る限り、海獣葡萄鏡の鳥や昆虫が飛ぶ外区を除外し、海獣(獅子)が躍動する内区をトリミングしたようにも見えます。 海獣葡萄鏡は唐時代の7世紀中頃~8世紀前半に流行し、飛鳥・奈良時代を通して日本にも数多くもたらされました。 唐時代以降も復古的なデザインの鏡として継続して制作され、日本でも模倣して制作されます。平安時代は遣唐使廃止を経て唐の文物の流入が滞り、銅鏡も唐鏡を模しながら、図像・紋様が和式化していきます。しかし10世紀末頃はまだ唐の様式を色濃く残した鏡があっても矛盾がない時代といえます。 7世紀に制作された海獣葡萄鏡(図221)径16.6㎝ 錫の濃度は約25%で鏡体は白銅(銀)色を呈しています 鏡体が黄色あるいは茶色であるのは、銅鏡の原料である青銅(銅、錫(すず)、鉛の合金)に含まれる錫の濃度が低いことを示しています。唐時代以前の銅鏡は、海獣葡萄鏡をはじめ錫の濃度が高く銀色(白銅色)をしています。唐の全盛期を過ぎた8世紀後半以降に制作された銅鏡は錫の濃度が低くなる傾向にあり鏡体が黄色や赤銅色をしています。 唐時代より後の時代に制作されたと推定される海獣葡萄鏡 (図210)径20.6㎝ この鏡は錆に覆われていますが、地金部分は黄味がかかった色調です。化学分析によると錫の濃度は約9%でした。 また日本国内で制作された鏡も中国鏡と比較して錫の濃度が低い傾向にあります。 中国鏡の入手が困難となった時期であることを考えると

モモの話

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 現在、春季企画展「漢代の人々 -姿と想い-」を開催しています。 今回は展示している画像鏡の図像についての話です。 画像鏡 (図147 後漢) 企画展「漢代の人々  -姿と想い-」にて展示中 この鏡は背面に神仙世界を平たい浮き彫りで表しています。左側に西王母、右側に東王父、上に馬車の図像があり、下に踊る女性の仙人(仙女)がいます。 仙女の顔の左側に表されているものはモモの実と考えられています(写真矢印部分)。 踊る仙女(部分:X線写真) なぜモモの実が表されているのでしょうか。 モモは通常の食用のほかに種子は薬としても用いられてきました。また画像鏡のモチーフにもなっている神仙世界の植物として長寿を象徴する縁起のよい植物、魔除けの効能もあると信じられていました。 鏡背面に表されたのも神仙とともに鏡の所有者に幸福をもたらすことが期待されていたのかもしれません。 モモは日本に弥生時代以降に伝わり、遺跡からはしばしばその種子が廃棄とは異なる状態で出土します。『記紀』には、黄泉の国でイザナミの姿に恐れをなして逃げるイザナギが黄泉の国と現世の境界に生えるモモの実を投げ、黄泉の国の神を退ける物語が記されています。中国文化の影響を受けていた日本でもモモは魔除けの力を有する植物と信じられていたことがわかります。 これからモモのおいしい季節。デザートとして口にする時、こんなエピソードがあることを思い出してみて下さい。

異体字銘帯鏡を読む2  古代中国の名前

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異体字銘帯鏡(いたいじめいたいきょう)は漢字のもつ視覚的なデザインを強調した鏡で、紀元前1世紀頃に流行します。前回紹介した 異体字銘帯鏡(昭明鏡) の銘文をもう一度見てみましょう。 内請質以昭明、 光輝象夫日月。 心忽穆夫願忠、 然壅塞夫不 泄 。 この銘文は、紀元前2世紀後半頃に制作された銅鏡に登場し、紀元前1世紀代に盛んに用いられます。今回注目したいのは、第4句の最後の文字「 泄 」です。 異体字銘帯鏡(昭明鏡)の中の「泄」の文字 (向きを正位置に修正) 「泄」は「せつ」と読み「とおる」の意味がありますが、同じ銘文をもつ別の銅鏡の中には「徹」と記す例があります。同じ銘文で「泄」と「徹」の異なる文字が使われるのは、古代中国の名前に関するルールのためと考えられています。 古代中国の人々にも「姓+名」の名前がありました。 例えば、『三国志 』の主要人物である諸葛孔明(しょかつこうめい)は、諸葛亮(しょかつりょう)という名前も知られています。「諸葛」は姓で、2種の名のうち「亮」は本名にあたります。古代中国において「名」は霊的な意味があるものと信じられ、親や上司など目上以外の者が「名」を呼ぶことはタブーとされました。そこで、日常に用いる親しみや敬意をもった呼び名として「字(あざな)」が用いられます。「孔明」は、この「字」です。 「名」に関するルールの中でも皇帝の「名」に関しては厳格です。口にすることはもちろん、同じ文字の使用も禁じられ、同じ意味の別の文字に置き換えられることになります。 前漢の全盛期を築いた第7代皇帝武帝(ぶてい)の姓名は「 劉徹 (りゅうてつ)」。皇帝の名と同じ「徹」の文字は使用できないため、上記の銘文が本来用いた「徹」は同じ意味の「泄」に置き換えられることになります。つまり銘文に「泄」が用いられたこの銅鏡は、武帝が在位した紀元前141年~紀元前87年の間に制作されたものと考えられるのです。 この銅鏡は、春季企画展「漢代の人々-姿と想い-」で展示中。どうぞご覧下さい。

異体字銘帯鏡を読む1 5月5日によせて

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 異体字銘帯鏡(いたいじめいたいきょう)は漢字のもつ視覚的なデザインを強調した鏡。 写真の鏡の鏡背面には銘文が内外2重に巡っています。 異体字銘帯鏡(昭明鏡)  前漢 図107 企画展「漢代の人々-姿と想い-」にて展示中 このうち外側には以下の詩が記されています。 内請質 以 昭明 、 内は請(清)質にして以(もっ)て昭明なり、 光輝象 夫 日 月 。 光輝は夫(か)の日月に象(に)たり。 心忽揚 而 願忠 、 心は忽穆(こつぼく)として忠を願う、 然壅塞 而 不 泄 。 然(しか)れども壅塞(ようさい)して泄(とお)らず。 詩の内容は、主君に対する忠誠を持ちながら、その気持ちが受け入れないられない、というもの。 この詩には元ネタがあるとされています。それは長江の中流域にあった楚(そ)の国の歌謡等を集めた古代中国を代表する詩集の 『楚辞 (そじ) 』。 まず詩の形に注目すると、前半の3字(赤文字の部分)と後半の2字(青文字の部分)を「以」、「夫」、「而」の1字でつなぎ、2句目と4句目の最後の漢字は「月(getu)」と「泄(setu)」で音を揃えています。これらの特徴は『楚辞』の詩の形と共通します。 『楚辞』の中の代表作である 「離騒 (りそう) 」 をはじめ主要作品を作ったとされるのが 屈原 (くつげん)という人物、ご存じでしょうか。歴史書である『史記』によると、屈原は戦国時代の楚の王族の一人で、詩作にも優れていた人物。同僚の嫉妬から陥れられ、王から遠ざけられ、失意の中で「離騒」を作ったとされます。そして王が自分に振り返ることがないことに絶望し、紀元前278年5月5日に長江の支流に身を投げたそうです。「離騒」は、誇り高い主人公が現世で不遇な扱いを受け、安住の地を求めた天上界でも不遇が続き、さらに至高の世界へと旅する物語。屈原の人生と重なり、鏡の銘文とも通じるものがあります。 この銘文をもつ銅鏡が制作されたのは前漢時代の紀元前1世紀の半ば頃、屈原の生きた時代から100年以上過ぎています。しかし、『楚辞』の中の純粋な心を持ちながら、主君や他人に認められない悲しい気持ちは前漢時代の人々も共感を覚え、鏡の銘文として採用されたのでしょう。その後も屈原の名は、主君に対する純粋な心を持つ者として現代に至るまで受け継がれています。 屈原の死後、人々はその霊を慰めるため葉で包んだ飯を

さまざまな龍

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 令和6年の辰年もはや1/4が過ぎました。今回は、当館で展示している、皆様がイメージする姿の龍とは少し違った龍をご覧いただきましょう。 金緑松石象嵌銅剣 (戦国時代)に表わされた龍 第1展示室にて展示中 戦国時代~漢時代の銅剣に象嵌(ぞうがん)された龍の姿。一見すると犬のような姿ですが、3千年以上前、商周時代の青銅礼器に表わされた龍紋を継承したような姿をした龍です。 蟠螭紋透彫鏡 (図録21)の中の「螭(ち)」 第1展示室にて展示中 鏡名となっている「蟠螭((ばんち)」の「蟠」は、「わだかまる」とも読み、とぐろを巻くという意味もあります。一見するとミミズが群れているような立体的な紋様ですが、これも龍の一種。「螭」とは角のない幼い龍のこと。写真をよく見ると丸みのある小さな頭がたくさん確認できます。 龍は中国で生まれた想像上の生物ですが、その歴史は古く、新石器時代(約6,500年前)に貝殻を用いて龍のような動物の図像が表現された例が知られています。以来聖なる動物として様々な姿で銅鏡をはじめとする器物に表現されています。ここで紹介したのはほんの一例。展示作品の中から様々な龍の姿を探してみましょう。

令和5年度冬季スポット展示 『干支 辰 たつ/シン』 雲龍紋八花鏡

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みなさまお元気でお過ごしでしょうか? 令和6年の干支(えと)は、十二支は「辰(たつ)」、そこに十二種の動物が割り当てられた十二生肖(じゅうにせいしょう)は「龍」です。 龍にまつわる鏡・・・ということで、令和5年度の冬季スポット展示は、 「雲龍紋八花鏡(うんりゅうもんはっかきょう)」 を取り上げています。 雲龍紋八花鏡(図録283) 時代:唐(8世紀)/径:15.4cm/重:704g 連続する八枚の花弁を象った形の鏡の中には、天を飛翔するかのような躍動的な姿態の一匹の龍と、その周囲を旋回するように雲の図像が表されています。 龍については、ぜひスポット展示で実物を御覧いただきたいですが、ここでは鏡の名前にある「雲龍」、雲と龍について少し注目したいと思います。 雲と龍は、"るいとも(類友)" (1)雲は龍に従い、風は虎に従う。 この雲龍紋八花鏡に限らず、龍が雲と一緒に表された図像をみかけたことはないでしょうか? 古代中国では、龍と雲がともに描かれた図像は、戦国時代~漢時代から多く描かれています。 龍と雲の関係性を知るうえでカギとなるのは、 「雲は龍に従い、風は虎に従う。」(※「雲従龍、風従虎。」) という言葉と考え方があります。 この言葉は、紀元前8世紀頃に原型がまとまったとされる、古代中国の占いの本『易経』(『周易』)の「乾(けん)」の項目(=卦(か))に記されたひとつの経文(=爻辞(こうじ))にある 「九五 飛龍天に在り。大人(たいじん)を見るに利(よ)ろし。」(※) ※「九五 飛龍在天。利見大人。」(『周易上経』乾) という一文に対して、「文言伝」で注釈された一節のなかに確認することができます。 「九五に曰く、飛龍天に在り、大人を見るに利ろしとは、何の謂いぞや。子曰く、同声相い応じ、同気相い求む。水は湿(うるお)えるに流れ、火は燥(かわ)けるに就く。 雲は龍に従い、風は虎に従う。 聖人作(おこ)りて万物を覩(み)る。天に本づく者は上に親しみ、地に本づく者は下に親しむ。すなわち各(おのおの)その類に従うなり。」(※) ※「九五曰、飛龍在天、利見大人、何謂也。子曰、同聲相應、同氣相求。水流濕、火就燥。 雲 從 龍、風從虎。 聖人作而萬物覩。本乎天者親上、本乎地者親下。則各從其類也。」(『周易上経』「乾(文言伝)」) 【訳】「飛龍天に在り、大人を見るに

【方格規矩鏡の図像(その1)】ライオンとトラ

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2023年の終わりに近づいてきていますが、みなさまお元気でお過ごしでしょうか? 古代鏡展示館では令和5年度秋季企画展『方格規矩鏡 ―鏡に広がる天円地方の宇宙―』を開催中です。(令和6年3月10日まで) (※2023年12月20日~2024年1月2日まで休館していますので来館年末年始ご来館の際はご注意ください。) 1.気になる方格規矩鏡の図像表現 今回テーマとする図像 さて、今回企画展に関連してブログで取り上げるのは、次の方格規矩鏡に表された動物の図像についてです。 ■写真1-1:鍍金方格規矩獣紋鏡(図録119)〈 当館蔵〉 前漢/紀元前1世紀、直径10.9 cm ・重さ243g 現在展示中の鍍金方格規矩獣紋鏡(図録119)は、外区には紋様がなく、内区の方格規矩紋部分を除く主紋様部分に鍍金(ときん=金めっき)が施されています。 その中で気になる図像は次の部分の動物の図像表現です。 ■写真1-2:図録119に表された気になる動物図像 図像はすべて細い線で施され、右側の四足の動物が、左側で左前足を挙げる四足の動物の方向を振り返っている様子が表されています。 右側の動物は、頭部は丸く、眼は切れ長、口元をやや「へ」の字状に結び、丸まった背中と首には2本1セットの筋で表した縞模様があり、尻尾は先端が細くなっています。 一方、左側の動物は、頭と首が反るように立ち上がり、前に少し突き出た顔には逆C字形の丸い眼と、「へ」の字状に結んだ口元、その後には首と顔の境界となる2本の皺があります。また顔より上の頭頂部はやや膨らみ、そこから首筋にかけて縞模様状の表現が施されています。体部には4つの珠点があり、腹部には皺または縞状の表現、内側に反った背中は立ち上がった首と相まって背丈が高く見えるようになっています。また、足先は3本の尖った爪または指になっており、左前足を持ち上げています。そして尻尾の先端は毛が広がるように3本の細い線が端に向かって開いていくように表現されてます。 当初この図像は、2頭のトラが顔を向かい合わせている表現だと思っていましたが、どうやら違うようです。 2.図像表現を読み解くヒント1 それに気づくヒントとなったのは、岡村秀典さんの鏡の研究による指摘です。 まず研究で示された鏡の図とその解説した文章を引用します。 ■図1:ライオンをあらわした前1世紀末の鏡(岡村2017より引

儀礼狩猟紋壺の世界

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 春秋戦国時代(紀元前8~紀元前3世紀)、青銅器は儀礼に用いる特別な器から実用的なシンプルなものに変化していきますが、一方で装飾に工夫をこらした器も出現します。 壺 (こ)は水や酒を貯える器で、春秋戦国時代頃に現れます。今回紹介する壺は卵のような形の体部外面に人物や動物の姿がところ狭しと表現されています。なお、写真の反対側の面もご覧いただいている面と同じ絵が表現されています。 儀礼狩猟紋壺(戦国時代) 当館蔵 高32.2㎝ 第1展示室「金工の歴史」にて展示中 壺は紋様帯によって上下4段に区画され、それぞれの区画に狩猟や儀礼の場面が表現されています。 1段目(壺の頸の部分)には女性が桑の木の葉を摘む場面と男性が建物から的をめがけて弓を射る場面が表現されています。これらは生産活動や競技ではなく、神に関わる儀式として行われるものです。 最上段に表わされた情景 桑の葉を摘む場面(左側)と弓を射る場面(右側) 2段目(壺の肩の部分)には2階建ての建物があります。2階では食器を並べるなど宴会の準備、1階では梁(?)から吊した 鐘 (しょう:青銅製の打楽器)や 磬 (けい:石製の打楽器)などを演奏する場面が表現されています。また掲載の写真では見えない部分に射包み(いぐるみ)や弋射(よくしゃ)と呼ばれる紐を結びつけた矢を放ち、飛ぶ鳥をからめとる狩猟の場面も表現されています。 2段目に表わされた場面の一部 宴会の準備(上側)と楽器の演奏(下側) 参考:表現された楽器の鐘 獣面紋鐘 (戦国時代)当館蔵 *現在展示していません 3・4段目(壺の胴部)も狩猟の場面ですが、様々な動物と武器をもつ人物が入り乱れ、剣を手に大型動物に果敢に挑む者、動物に追われたり倒された者などが描かれています。 登場する動物を見てみると、実在するシカなどのほか、角のある奇妙な動物がおり、さらに写真では見えない部分に魚も表現されています。この場面は現実の世界ではない、神話的な世界を表現しているのかもしれません。 3段目に表わされた狩猟の場面 参考:人物が手にするのと同形の剣 金緑松石象嵌剣 (戦国時代)当館蔵 長53.2㎝ 第1展示室「金工の歴史」にて展示中 これらの紋様は、あらかじめ紋様部分がくぼむように鋳造し、そこに青銅とは異なる色調の銅などの金属をはめ込む象嵌(ぞうがん)の技法が用いられています。これまで知ら