妖怪退治の鏡

みなさまお元気でお過ごしでしょうか?

2025年最初の投稿になります。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

令和7年(2025年)の干支は「巳」(み/シ)

十二支に割り当てられた動物、「十二生肖(じゅうにせいしょう)」でいうと「蛇・ヘビ)」にあたります。

現在開催中の古代鏡展示館の令和6年度冬季スポット展示(令和7年1/4~3/9)では、ヘビの図像が表されている「四神十二支紋鏡(ししんじゅうにしもんきょう)」を取り上げ、ヘビにちなんで「妖怪・大蛇(だいじゃ)を退治する鏡!?」として注目しています。

四神十二支紋鏡に表された蛇

四神十二支紋鏡(図録184/隋‐唐/直径24.8㎝・重量2,132g/当館蔵)

鏡が大蛇を退治する話については、このスポット展示の期間中にご観覧された方に配布している解説資料に記載しておりますので是非ご来館ください。

※解説資料についてはスポット展示終了後に当館公式HPへの掲載を予定しています。

それでは、なぜ四神十二支紋鏡を妖怪・大蛇を退治する鏡としてスポット展示で注目しているのでしょうか?

このブログ記事では、四神十二支紋鏡と「妖怪退治の鏡」についてみていきたいと思います。


(1)『古鏡記』にみえる妖怪を退治する鏡

7世紀(隋時代末~唐時代初め)に成立したとされる伝奇小説『古鏡記』(こきょうき)には、妖怪を退治する鏡として「古鏡(こきょう)」が登場します。

小説の作者は王度(おうたく)〈582年頃~625年頃(内田・乾1971)〉という人物ですが、小説の主人公の一人でもあります(※1)。

物語は、王度が仕えていた師から「古鏡」を譲り受けたところから始まり、隋・大業七年(611年)から大業十三年(617年)までの間に起こった古鏡にまつわる不思議な出来事が描かれています。その中には鏡を持って赴いた先々で妖怪・変化を退治するストーリーがあり、そのエピソードのひとつに大蛇退治の話があります。

以下に、『古鏡記』冒頭の一部を抜粋します。(※2-1)

【原文】隋汾陰侯生、天下奇士也。王度常以師禮事之。臨終、贈度以古鏡曰。持此則百邪遠人。度受而寶之。

【訓読】隋の汾陰(ふんいん)の侯生(こうせい)は、天下の奇士なり。王度(おうたく)は常に師礼(しれい)を以て之に事(つか)ふ。終りに臨んで、度(たく)に贈るに古鏡を以てして曰く、此を持すれば則ち百邪人より遠ざかる、と。度は受けて之を宝とす。

【意訳】隋の汾陰にいる侯生は、世にもまれなすぐれた人物であった。王度は、先生に礼をもって常に仕えていた。(侯生は)臨終に際し、王度に古鏡を贈り、「この鏡を持っていれば、様々な妖怪は人間から遠ざかる」と言った。王度は受け取りこれを宝とした。

王度が師から譲り受けた鏡には、さまざまな妖怪(百邪)を人に寄せ付けない「魔除け」・「壁邪(へきじゃ)」のチカラがあることが示されています。


(2)『古鏡記』の「古鏡」の特徴

興味深いことに、鏡に壁邪・魔除けのチカラがあることを上掲の文章で説明した後、鏡の大きさや紋様などの特徴を詳細に記述されます。この記述から、四神や十二支の紋様が鏡に表されていることが分かります。

次に特徴の記述部分を抜粋して掲載しておきます。(※2ー2)

【原文】鏡橫徑八寸、鼻作麒麟蹲伏之象。遶鼻列四方、龜龍鳳虎、依方陳布。四方外又設八卦、卦外置十二辰位而具畜焉。辰畜之外、又置二十四字、周遶輪廓。文體似隸、點畫無缺、而非字書所有也。侯生云。二十四氣之象形。

【訓読】鏡の横径は八寸、鼻(び)に麒麟の蹲伏(そんぷく)の象(かたち)を作る。鼻を遶(めぐ)りて四方を列(つら)ね、亀・龍・鳳・虎、方に依りて陳布(ちんぷ)す。四方の外又八卦(はっか)を設け、卦の外には十二辰位(じゅうにしんい)を置きて畜(ちく)を具(そな)ふ。辰畜(しんちく)の外、又二十四字を置き、輪廓(りんかく)を周遶(しゅうじょう)す。文体は隷(れい)に似て、点画(てんかく)は缺(か)くること無けれども、字書有る所に非(あら)ざるなり。侯生云(いは)く、二十四気(にじゅうしき)の象形(しょうけい)なり、と。

【意訳】鏡の横径は八寸(※唐小尺で約24㎝)、鈕(ちゅう※鏡背中央の突起部)を麒麟が伏せた形に作ってある。鈕を囲んで四角形をならべ、亀・龍・鳳・虎を方角にのっとって並べてある。四方の外にはまた八卦の(紋様を)を設け、八卦の外側には十二支を位置づけて動物をととのえてある。その十二支の動物の外側には二十四の文字を配置し、周囲を巡る。字体は隷書(れいしょ)に似ており、点や線のかけることはないが、字書にはないところのものである。侯生が言うには、二十四気の象形だという。

以上のような「古鏡」の紋様部分特徴を次のような図表のようにまとめ、当館所蔵の四神十二支紋鏡(図録184)と比較してみました。


こうして比較してみると、「古鏡」と当館の四神十二支紋鏡はまったく同一ではありませんが、径もほぼ同じであり、内区の方格紋、四神の図像、外区の十二支の動物図像といった紋様や鏡の形に沿って巡る銘文など紋様に共通する要素が多数認められます。

つまり、「古鏡」は、当館の所蔵鏡と同様に「四神十二支紋鏡」と呼べるものといえます。

ちなみに、当館の四神十二支紋鏡に認められなかった「八卦(はっか・はっけ)」の紋様は、古代中国の占い『易経』で用いられる「⚊」と「⚋」の2種類の棒(それぞれ陽と陰を表す)を組み合わせて構成される8つの記号、「☰(乾:けん)、☱(兌:だ)、☲(離:り)、☳(震:しん)、☴(巽:そん)、☵(坎:かん)、☶(艮:ごん)、☷(坤:こん)」を指します。『易経』説卦伝では、「天・沢・火・雷・風・水・山・地」の自然や、「北西・西・南・東・南東・北・北東・南西」の方位といった様々な事象などをそれぞれ割り当てられたりしています。

また、二十四の文字で表された「二十四気(にじゅうしき)」とは、一年間の気候を、十五日を一気、一月を二気として二十四気に区分したものです。「二十四節気(にじゅうしせっき)」ともいいます。それぞれの名称は次のとおりです。

【春】立春(りっしゅん)、雨水(うすい)、啓蟄(けいちつ)、春分(しゅんぶん)、清明(せいめい)、穀雨(こくう)
【夏】立夏(りっか)、小満(しょうまん)、芒種(ぼうしゅ)、夏至(げし)、小暑(しょうしょ)、大暑(たいしょ)
【秋】立秋(りっしゅう)、処暑(しょしょ)、白露(はくろ)、秋分(しゅうぶん)、寒露(かんろ)、霜降(そうこう)
【冬】立冬(りっとう)、小雪(しょうせつ)、大雪(たいせつ)、冬至(とうじ)、小寒(しょうかん)、大寒(だいかん)

(3)四神十二支紋鏡の年代と「古鏡」

当館の所蔵鏡(図録184)のような四神十二支紋鏡は年代については、秋山進午さんの研究「隋唐式鏡綜論」(秋山1995)や、持田大輔さんの研究「隋代・初唐期における銅鏡の分類と編年」(持田2010)があります。特に、持田さんの研究では隋代・初唐期における銅鏡の年代が詳しく述べられています。

本来はより詳細かつ厳密に検討すべきところかもしれませんが、ここでは持田さんの研究の鏡の分類に当館の所蔵鏡(図録184)を試みとして照らし合わせてみましょう。

まず、当館所蔵の四神十二支紋鏡は、持田さんの研究では「方格四神鏡」と呼ばれています。

鈕の周りの鈕座(ちゅうざ)部分に獣紋がある「獣紋座」があり、その周りには方格紋があります。

内区の主紋には四神の図像、外区には帯圏(たいけん)部分の銘文とその外側に十二支の動物紋が配置される「十二支文銘帯」があります。

そして、上掲の図表には記載していませんが、最外縁には平彫式雲紋(ひらぼりしきうんもん)が巡ります。

こういった特徴の鏡は、持田さんの編年では「唐鏡1期」、その年代としては、611~625年(※3)に位置付けられています。

当館の所蔵鏡のような四神十二支紋鏡(「方格四神鏡」)の年代的な位置づけが611年~625年とすると、『古鏡記』に記された出来事の時期(611~617年/大業7年~13年)や『古鏡記』が成立した時期(初唐期:618年~7世紀末)、主人公であり作者でもある王度の存命が推定される時期(582年頃~625年頃)と重なります。

これらの年代的位置づけが正しいとすれば、『古鏡記』の「古鏡」として登場する四神と十二支の紋様を持つ鏡は、当館の所蔵鏡のような同時代の四神十二支紋鏡をモデルとしていた可能性があるといえそうです。


(4)「古鏡」は魔鏡

『古鏡記』に記載される「古鏡」の特徴は紋様だけではなく、次のような性質も続けて述べられています。

【原文】承日照之、則背上文畫、墨入影內、纖毫無失。舉而扣之、清音徐引、竟日方絕。嗟乎、此則非凡鏡之所同也、宜其見賞高賢、自稱靈物。

【訓読】日を承(う)けて之を照らせば、則ち背上(はいじょう)の文画(ぶんが)、影内(えいない)に墨入(ぼくにゅう)し、繊毫(せんごう)も失うこと無し。挙げて之を扣(たた)けば、清音徐(おもむ)ろに引き、竟日(きょうじつ)にして方(まさ)に絶ゆ。嗟乎(ああ)、此れ則ち凡鏡の同じ所に非ざるなり。宜(むべ)なり、其の高賢(こうけん)に賞(しょう)せられて、自(おの)づから霊物(れいぶつ)に称(かな)へるは。

【意訳】日光に向けてこれを照らすと、鏡背の文字や絵は光の中に黒く投射され、少しも欠失することはない。持ち上げてこれを叩くと、清らかな音がゆっくりと続き、ちょうど一日たってやむ。ああ、これは普通の鏡とはわけがちがうのだ。もっともなことだ。この鏡が優れた人物にたたえられて、おのずから霊物と呼ばれるのは。

日光で照らすと、反射した光のなかに文字や絵が黒く投射される性質の鏡といえば、「透光鏡(とうこうきょう)」、今日でいうところのいわゆる「魔鏡(まきょう)」です。

また、叩くと終日清らかな音が響き続けるという性質もあります。仏具の鈴(りん)を叩いたときのような音とかするのでしょうか?

当館の所蔵鏡はもちろん叩いて音を鳴らすことはできませんし、磨かれていない鏡面の反射光の中には図像が映し出されているかどうかも確認できません。

しかしながら、こういった四神や十二支紋などの紋様を持ち、特殊な反射光や音をもつ「古鏡」について、王度は「ああ、これは普通の鏡とはわけがちがうのだ。もっともなことだ。この鏡が優れた人物にたたえられて、おのずから霊物と呼ばれるのは。」と発言し、「霊物」という神秘的な力をもつ特別な鏡と評価しています。


(5)四神十二支紋鏡は「宝鏡」

そして『古鏡記』の「古鏡」の冒頭説明文の最後には次のように記されます。(※2-3)

【原文】宝鏡復去。哀哉。今具其異跡、列之於後。数千載之下、倘有得者、知其所由耳。

【訓読】宝鏡(ほうきょう)復(また)た去れり。哀しいかな。今其の異跡(いせき)を具(ぐ)して、之を後に列す。数千載(すうせんさい)の下(もと)、倘(も)し得る者有らば、其の由(よ)る所を知らんのみ。

【意訳】宝鏡もまた去ってしまった。悲しいかぎりだ。今、その鏡の不思議な出来事の詳細を以下に書き連ねる。数千年の後にもしも鏡を手に入れる者があれば、その由緒を知られるにちがいない。

王度は「霊物」である鏡を「宝鏡」とも表現し、さらに特別な鏡として評価しています。本ブログ記事で掲載していない冒頭以降のエピソードの文中では「宝鏡」の呼称が多用されますが、別に「天鏡」という表現もみられます。

物語の最後では、大業十三年(617年)に鏡が納められた箱の中から悲しげな鳴き声がかすかに起こり、次第にその声は大きくなって龍や虎が吠えるかのようになった後、静かになり、箱を開けると鏡がなくなっていた、という鏡が消失する結末を迎えます。そのため、王度が「宝鏡」が去ってしまって悲しいと言っています。

そして、数千年後にこの「宝鏡」を手に入れる人のために、鏡の由緒や不思議なエピソードを書き残そう、という王度の『古鏡記』の作成動機が冒頭に記されます。

数千年後の人には分かるまいと、王度が同時代の鏡を「古鏡」のモデルにして『古鏡記』を記したのではないかという妄想も働いてしまいますが、約1400年後の現在、こうして『古鏡記』と当館所蔵の四神十二支紋鏡と比較していることを考えると、なんだかこれも鏡による不思議な出来事のようにも思えてしまえます。


(6)四神十二支紋鏡の紋様のチカラ

とにもかくにも、王度は不思議なエピソードを語っていくうえで師から譲り受けた「古鏡」を「霊物」や「宝鏡」、「天鏡」と呼んで鏡の霊妙さ、特殊性を強調しているわけですが、鏡の紋様や性質の特徴の詳細な描写は、そのことへの説得力を持たせるためにおこなわれた具体的な演出や強調表現としてなされているのではないかと考えられます。

このようにみると、四神十二支紋鏡である「古鏡」は、「百邪遠人」という妖怪退治、「壁邪(へきじゃ)」、「魔除け」の効果を持つ鏡として作中に登場しますが、四神や十二支といった紋様にそういった効果・意味があることを当時の人々の間で広く知られ、認識されるものだったともいえます。

改めて「古鏡」に表されている要素を鈕から外側に向かって大まかにみたとしても、

鈕が麒麟(瑞獣)→四方(方格=大地?)→亀・龍・鳳・虎(四神=方位)→八卦(陰陽・自然等)→十二支の動物(暦日・方位)→二十四字(二十四気=一年の気候)→鏡の外形(天を表す円形かどうかは不明)

となっており、壁邪や魔除けという効果の他に、当時の世界や宇宙を表し構成するような様々な要素もいっぱい詰め込まれているようにもみえます。

たくさんの紋様が施された「古鏡」は、それら紋様のチカラを信じた当時の人たちの思いが強く込められたような理想的な鏡だったのかもしれません。

しかも、反射光には欠けることなく紋様が黒く映し出されます。

きっと、そんな鏡の前では大蛇をはじめどんな妖怪もひとたまりもなかったことでしょう。


(7)妖怪退治の「古鏡」はいずこに

「古鏡」と全く同一の紋様を持つ当時の鏡は私の知る限りではまだ見つかってないようです。

しかし、紋様面で「古鏡」と共通点の多い鏡としては、正倉院宝物にある「十二支八卦背円鏡」があり、鏡への八卦紋の採用時期にあたる8世紀前半に位置付けられています(※4)。

これまでに『古鏡記』の成立時期や王度の存命時期が当館の四神十二支紋鏡が該当する「唐鏡1期」(611~625年)に重なるというようにみてきました。

しかし、成瀬正和さんの研究で指摘されるように八卦紋を有する唐鏡が遅くとも750年頃には制作されていた(成瀬2009.p76)とするならば、『古鏡記』の成立時期を最後のエピソードの大業十三年(617年)以降の7世紀代(初唐期)だとしても、そこに登場する八卦紋をもつ「古鏡」とは時期的にズレが生じます。そのズレの大きさも、八卦紋の採用の始まりの時期がどこまで遡るかによって変わってきます。

今回参照している『唐代伝奇』(内田・乾1971)に所収の『古鏡記』のテキストについては『太平御覧』巻230の「異聞集」から引用されるものが底本になっていますが、『古鏡記』を研究する小南一郎さんは「現在のテキストで遡ってゆけるのは、唐末の「異聞集」までであって、それ以前がどのような形態と内容のものであったかを直接には窺い得ないということは心に留めておく必要があるだろう」と注意喚起しています(小南1988.p165~166)。

このあたりの問題になってくると、オリジナルからどのような変更や修正などがおこなわれているのか不明なためここで検討するのは不可能であり、これ以上は踏み入ることはできません。

とはいえ、「古鏡」をモデルに八卦紋を採用して現実の鏡が作られたのでは?といった想像をするのも面白いかもしれません。

もしかしたら、理想を追い求めて『古鏡記』を基に作られた鏡がどこかに存在し、数千年後の誰かがその鏡を手にしてひそかに妖怪退治をしているのかも、なんていう物語もどこかにありそうです。

誤解のないよう念のため申し添えておきますと、当館の四神十二支紋鏡は妖怪退治をするためのものでもありませんし、妖怪退治できるかどうかは分かりません。

当館の冬季スポット展示にて是非実物の四神十二支紋鏡をご観覧いただき、紋様に注目して確認してみるのというのも一興かもしれませんね。


【註】

(※1):小南一郎さんの研究(小南1988)によれば、作者には、王度の同じ一族の王凝(おうぎょう)やその孫の世代の王勔(おうべん)という説があり、「古鏡記」も一族の伝承を基礎にして形成されたと考えられるもので、初唐時代の世に現れた作品としています。

(※2-1・2・3):原文出典(旧字修正)及び訓読・意訳の参考は、内田泉之介・乾一夫1971『唐代伝奇』(新釈漢文大系大44巻)明治書院p11~43に所収される『古鏡記』に拠る。なお、訓読・意訳に際しては旧字体を新字体に適宜変換している部分があります。

(※3):持田さんの研究(持田2010)のなかでは唐鏡1期の年代の具体的な数字は示されていません。しかし、この時期の最古例が隋・大業七年(611年)とされ、さらにその前後の時期の位置付けは、隋鏡2期が7世紀初頭、唐鏡2期は7世紀第2四半期と位置づけされていることから、このブログ記事では分かりやすいように611~625年と記載しています。

(※4):十二支八卦背円鏡の紋様要素の配列は鈕から外に向かって、獅子(鈕)→四神→八卦紋→十二支→唐草紋となっています。小南一郎さんも「古鏡」と共通性の多いものとして指摘されています(小南1988.p167)。その年代については、成瀬正和さんによれば、同じく正倉院宝物で八卦紋をもつ槃龍背八角鏡が化学組成から唐鏡であると判定し、「唐では遅くとも七五〇年頃には八卦紋を有す鏡が制作していたことのなによりの証拠である」としたうえで、「国産鏡ということで専門家の意見が一致する南倉の十二支八卦背円鏡は、四神、花卉、十二支、唐草紋などが表され、また鈕も伏獣鈕である。このいずれの紋様要素も八世紀前半のものであろう。しかりとすれば八卦文も鏡紋様の世界において、八世紀前半には確実に取り入れられたものと見なければならない」と位置づけられています(成瀬2009.p76)。


【引用・参考文献】

秋山進午1995「隋唐式鏡綜論」『泉屋博古館紀要』第十一巻 泉屋博古館 p1~82
内田泉之介・乾一夫1971「古鏡記」『唐代伝奇』(新釈漢文大系大44巻)明治書院 p11~43 
小南一郎1988「王度「古鏡記」をめぐって ―太原王氏の伝承―」『東方学報』60号 京都大学人文科学研究所 p159~197
高田真治・後藤基巳訳1969『易経(下)』岩波文庫
成瀬正和2009『日本の美術522 正倉院の宝飾鏡』至文堂
持田大輔2010「隋代・初唐期における銅鏡の分類と編年」『會津八一記念博物館研究紀要』第11号 早稲田大学會津八一記念博物館 p27~44

今年もよろしくお願いいたします。
(K)
20250107作成