異体字銘帯鏡を読む1 5月5日によせて

 異体字銘帯鏡(いたいじめいたいきょう)は漢字のもつ視覚的なデザインを強調した鏡。

写真の鏡の鏡背面には銘文が内外2重に巡っています。

異体字銘帯鏡(昭明鏡) 前漢 図107
企画展「漢代の人々-姿と想い-」にて展示中

このうち外側には以下の詩が記されています。

内請質昭明、 内は請(清)質にして以(もっ)て昭明なり、

光輝象。 光輝は夫(か)の日月に象(に)たり。

心忽穆願忠、 心は忽穆(こつぼく)として忠を願う、

然壅塞。 然(しか)れども壅塞(ようさい)して泄(とお)らず。

詩の内容は、主君に対する忠誠を持ちながら、その気持ちが受け入れないられない、というもの。

この詩には元ネタがあるとされています。それは長江の中流域にあった楚(そ)の国の歌謡等を集めた古代中国を代表する詩集の『楚辞(そじ)』。

まず詩の形に注目すると、前半の3字(赤文字の部分)と後半の2字(青文字の部分)を「以」、「夫」の1字でつなぐ、2句目と4句目の最後の漢字は「月(getu)」と「泄(setu)」で音を揃えています。これらの特徴は『楚辞』の詩の形と共通します。

『楚辞』の中の代表作である「離騒(りそう)をはじめ主要作品を作ったとされるのが屈原(くつげん)という人物、ご存じでしょうか。歴史書である『史記』によると、屈原は戦国時代の楚の王族の一人で、詩作にも優れていた人物。同僚の嫉妬から陥れられ、王から遠ざけられ、失意の中で「離騒」を作ったとされます。そして王が自分に振り返ることがないことに絶望し、紀元前278年5月5日に長江の支流に身を投げたそうです。「離騒」は、誇り高い主人公が現世で不遇な扱いを受け、安住の地を求めた天上界でも不遇が続き、さらに至高の世界へと旅する物語。屈原の人生と重なり、鏡の銘文とも通じるものがあります。

この銘文をもつ銅鏡が制作されたのは前漢時代の紀元前1世紀の半ば頃、屈原の生きた時代から100年以上過ぎています。しかし、『楚辞』の中の純粋な心を持ちながら、主君や他人に認められない悲しい気持ちは前漢時代の人々も共感を覚え、鏡の銘文として採用されたのでしょう。その後も屈原の名は、主君に対する純粋な心を持つ者として現代に至るまで受け継がれています。

屈原の死後、人々はその霊を慰めるため葉で包んだ飯を川に投げ込んだと伝えられます。これが端午の節句に食べるちまきの由来とされています。また、屈原を捜索するため舟を出したことに由来するのが龍舟(ドラゴンボート)というボート競技。5月に開催される兵庫県相生市のペーロンなどとして現代の日本にも伝わっています。これらは、史実ではなく、漢時代より後に創作されたものとされていますが、屈原にまつわる伝承は今日の我々の周りにも生き続けています。