鼎の物語
鼎は「てい」と読みます。3足があり、口の両側に把手(耳)が付く器。
今日の日本でも3足の香炉を鼎(かなえ)と呼び、3人の対談を鼎談と言うなど言葉として残り、用いられています。
当館で開催中の「中国王朝の粋美」の中でも鼎を展示しています。
肉のスープを煮込むものですが、日常で用いる鍋ではなく、王が神を祭る儀式で用います。
弦紋鼎 商
「古代中国金工の歴史」で展示中
「禹の九鼎」周王朝には9つの鼎がありました。これらは最初の王朝とされる夏の時代の初代の王禹(う)が国内の銅を集めて作ったもの、と伝えられていました。
「鼎を定める」王朝は夏から商(殷)、周と変わり、九鼎は代々の王朝に引き継がれました。鼎が置かれる場所こそ王朝が所在する場所だったのです。
当館で展示している鼎は高さ18㎝程度の小型のものですが、中国で出土した鼎の中には非常に大きく、重いものがあり、動かすことは大変だったようです。
「鼎(かなえ)の軽重を問う」周王朝に衰えがみえた春秋時代、長江流域の大国である楚の国の王は九鼎を入手しようと、その重さを周王朝の使者に尋ねたと言われています。使者は、国力が衰えても鼎があることは、王の徳が衰えていないこと、と回答を拒絶しました。
「鼎伏」しかしその後周王朝は滅びます。九鼎は秦の始皇帝の手に渡りますが、移動中に1つを河に落としてしまったと伝えられています。始皇帝は水没した鼎の引き上げを試みましたが、ついに成功することはありませんでした。
鼎は、儀式の中の重要な器にとどまらず、王の権威を象徴する宝器でもあったのです。