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安倉高塚古墳の鏡

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中国自動車道宝塚インターを降りて尼崎方面へ走り、「安倉」交差点を過ぎた住宅街の中に安倉高塚古墳はあります。古墳時代前期(4世紀末頃)の円墳(復元径十数m)ですが過去の工事で損壊し、今では墳丘と竪穴式石室の一部が残るのみ、気にしなければ通り過ぎてしまいそうな小さな古墳です。 しかし、この小さな古墳は、出土した銅鏡によってその名が広く知られています。         安倉高塚古墳(宝塚市)出土 赤烏七年対置式神獣鏡            (兵庫県立考古博物館蔵 県指定文化財) 銅鏡は竪穴式石室内から2面出土しています。そのうちの1面、放射状に神像や獣形を配した対置式神獣鏡の外区には銘文が時計回りに記されています。鋳上がりの悪さや錆のために判読は非常に困難ですが、同種の銅鏡などを参考に、下記のように復元されています。 「 赤烏七年 太歳在丙午 時加日中 造作明竟 百□漳 服者富貴 長楽未央 子孫・・」 銘文の前半は、良い時期に良い材料で制作した鏡であること、後半はこの鏡によって得られる効能を記しており、多くの鏡にみられる内容です。 冒頭の「赤烏(せきう)七年」は中国の三国時代、呉の年号で西暦244年にあたります。日本で呉の年号が記された銅鏡が出土しているのは、安倉高塚古墳と山梨県の鳥居原狐塚古墳(「赤烏元年」銘)の2例のみです。 では、呉の年号が記された鏡は、どのような意味があるのでしょうか。 中国の三国時代、魏と倭国の外交は『魏志』倭人伝によってよく知られていますが、魏と緊張関係にあった呉も周辺地域との外交に力を入れていたようです。 赤烏七年は魏の年号では正始4年にあたります。卑弥呼が魏に遣使し、「銅鏡百枚」などを下賜された「景初3年」(西暦239年)、下賜品を携えた使者が倭国に渡った「正始元年」(西暦240年)と同じ時代です。呉が倭国と関わった記録は全く残されていませんが、魏と同様に倭国となんらかの接触をもっていたかもしれないことを物語る銅鏡です。 今回紹介した銅鏡は、企画展「発掘された銅鏡 兵庫に伝わった鏡と文化」にて展示中です。9月10日(火)まで