投稿

四神シリーズ⑥ 四神の効能

イメージ
四神は前漢から鏡の紋様に登場していますが、そこに記された文字(銘文)の中に、四神がもたらす効能について記されたものがあります。 方格規矩四神鏡のX線白黒反転画像 (新:約2,000年前、千石コレクション123) 同上拡大 「左龍右乕辟不羊。朱鳥玄武順陰陽。」 最初の文字「左」が逆字(左右反転した字。鋳造でつくるため、誤って逆字になることがある)になってますが、漢字なのでほぼ読めると思います。 ここで、「左龍」の「左」についてです。 中国では天子は北側に居り、そこから南を向きます(「天子南面」)。ですから、「左」とは東を指します。 同様に「右乕(虎)」の「右」は西を指します。 これは日本の京都でも同じで、東側を左京区、西側を右京区と呼ぶのと同じことです。なぜなら、京都、平安京も、唐の都、長安をまねているからです。 現在の地図では北が上になっているので、左京と右京が反対になっていますが、その理由は「天子南面」だからです。 話がそれましたが、つまり左龍=東の龍=青龍、右虎=西の虎=白虎、ということです。 さて、ここに記されている四神の役割は、それぞれが東西南北に居て周囲を守る、というような皆で一つの役割を果たすのではないようです。東西の青龍・白虎、南北の朱鳥(朱雀)・玄武がそれぞれペアになって別々の働きをするようです。 まず、「青龍・白虎」ペアの働きは、「辟不羊」つまり「不祥をしりぞける」、良くないことをしりぞける、というものです。 もう一組の「朱雀・玄武」ペアは、「順陰陽」つまり「陰陽をととのえる」、陰と陽を調和し、天変地異がおこらないように穏やかに循環させる、というものです。 当館では、これまでに四神を一つずつデザインしたオリジナルの缶バッジを配布してきましたが、そもそもペアでそろえないと効果が期待できないことになってしまいます。 ぜひ、次の機会にペアをそろえて、四神の効果を発揮させてください。 東西ペア「辟不祥」の缶バッジ 南北ペア「順陰陽」の缶バッジ <参考文献> 来村多加史 2005『キトラ古墳は語る』日本放送出版協会 岡村秀典 2017『鏡が語る古代史』岩波書店

四神シリーズ⑤ 四神のはじまり

イメージ
四神はいつ頃から登場するのでしょうか? 1987年、中国の河南省濮陽県の西水玻遺跡で貝殻を並べて描かれた絵が発見されました。 新石器時代中期(仰韶文化:紀元前4,000年頃)のお墓にともなうもので、頭を南に向けた遺体の両脇に絵が表現されており、右側(東側)は龍、左側(西側)は虎と考えられています。 また、足元(北側)には、骨と貝でヒシャク形を表した絵も見られます。 (濮陽市文物管理委員会等 1988「河南濮陽西水玻遺址発掘簡報」『文物』第三期) この貝殻絵の「龍」と「虎」は、四神の「青龍」、「白虎」と同じ方位に配置されています。ヒシャク形の絵は北斗七星を表すともいわれています。 ただし、南北の朱雀、玄武は見られません。 戦国時代(紀元前5世紀頃)の曾侯乙墓(そうこういつぼ)出土の漆塗りの衣装箱にも、青龍と白虎が描かれており、二十八宿が示す方位とほぼ一致しています。ただし、朱雀、玄武は見られません。 描く場所がなかったため省かれたともいわれていますが、まだそろっていなかったのかも知れません。 曾侯乙墓出土の漆塗衣裳箱 (湖北省博物館編1989『曾侯乙墓』文物出版社) 文献を見ますと、『淮南子(えなんじ)』(紀元前139年に献上)に登場します。 東方木也・・・其獣蒼(青)龍・・・ 南方火也・・・其獣朱雀・・・ 中央土也・・・其獣黄龍・・・ 西方金也・・・其獣白虎・・・ 北方水也・・・其獣玄武・・・ 四神シリーズ④「四神ってなに?」にご紹介した五行や方位、色との対応も全く一致しています。 前漢の武帝の茂陵に関連する建築物に使用された塼(レンガ)や軒丸瓦の瓦当にも四神がそろって表現されていますので、このころまでには四神の顔ぶれが整ったようですが、固定化するようになるのは紀元後になってからのようです。 <参考文献> 林巳奈夫 1989『漢代の神神』臨川書店 林巳奈夫 1993『龍の話 図像から説く謎』中央公論社 来村多加史 2005『キトラ古墳は語る』日本放送出版協会 岡村秀典 2017『鏡が語る古代史』岩波書店

四神シリーズ④ 四神ってなに?

イメージ
ところで四神とはどういうものでしょうか。 奈良県明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画にもあり、絵を見れば「あぁ」と思われる方も多いはず。 「青龍(せいりゅう)」 東に配置 「白虎(びゃっこ)」 西に配置 「玄武(げんぶ)」 北に配置 「朱雀(すざく)」 南に配置 キトラ古墳の四神(一部復元) (来村2005より) デザインは時代や地域によって異なりますが、この4種類が方位に合わせて配置されていれば、四神とみて間違いないでしょう。 龍、虎、鳥、亀と蛇の5種類の獣をそれぞれ東西南北の方位に割り当てたもの(北だけ2種類の獣)で、五行説の影響を受けています。 五行説とは、戦国時代(紀元前250年頃)に体系化されたもので、すべてのものは「木」「火」「土」「金」「水」の5つの要素によって成り立ち、それらが相互に働きあって世界に様々なものが変化し、循環する、という考え方です。 五行説は天や自然の変化を説明する理論で、方位や色、季節にも影響し、自然界を秩序立てる枠組みにもなりました。 五行の割り当て表 この五行説によって、 東の龍が、東の色の青色となり「青龍」 南の鳥が、南の色の赤色となり「朱雀」 西の虎が、西の色の白色となり「白虎」 北の亀と蛇が、北の色の黒色となり「玄武」 となりました。  ※「玄」は「玄人(くろうと)」と読むように奥深い黒色の意味があります。 ちなみに、青春、白秋や、玄冬、朱夏などの言葉はこの五行説から生まれた熟語だそうです。 <参考文献> 来村多加史 2005『キトラ古墳は語る』日本放送出版協会 来村多加史 2008『高松塚とキトラ 古墳壁画の謎』講談社

中国鏡の中の人面鳥② 「迦陵頻伽(かりょうびんが)」

イメージ
前回、人面鳥の「玄女(げんにょ)」についてお話しましたが、今回はもう一つの「迦陵頻伽(かりょうびんが)」についてです。 迦陵頻伽鳳紋鏡(千石コレクション192 隋~唐) 「迦陵頻伽」とは、仏教で登場する想像上の鳥(?)で、サンスクリット語のkalavinkaに漢字を当てはめたものです。 鳩摩羅什(くまらじゅう)という名前の僧が402年に漢訳した『阿弥陀経』、406年に漢訳した『妙法蓮華経』などに登場します。 鳥のもつ美しい姿と、心地よい鳴き声の象徴として生み出され、極楽浄土に住み、非常に美しい声で鳴くといわれています。その美声によって仏法を説くともいわれています。 日本には、遅くとも8世紀までには伝えられ、絵画(浄土図、涅槃図など)や、彫刻(仏像の光背の中など)、工芸、建築(天井や欄間透彫など)、芸能(雅楽など)といった様々なジャンルに取り入れられました。 たとえば、寺院(京都知恩院三門楼上など)の天井画や、正倉院北倉宝物の螺鈿紫檀琵琶(らでんしたんのびわ)、浄土曼荼羅などに表されているほか、雅楽には「迦陵頻」という演目があります。 仏教に関係する鳥なので、お寺で見かけることがあります。 ご参拝の際に、ちょっと探してみてはいかがでしょうか? 思わぬところにひっそりといらっしゃるかもしれません。 心をしずかにすれば、その美しい声を聞くことができるかも。 ちなみに兵庫県では姫路市書写山円教寺大講堂の天井にいらっしゃるそうですよ。 (まだ、私もお会いできていませんので、機会をうかがっています。) <参考文献>藤木言一郎 2006年『日本の美術』6 №481 至文堂

中国鏡の中の人面鳥① 「玄女(げんにょ)」

イメージ
様々なドラマを生んだピョンチャンオリンピックも、閉会式を迎えました。 開会式では四神が登場し、このブログでも紹介いたしましたが、閉会式ではその姿はなく、再び人面鳥が現れました。 強烈な印象を与えたこの鳥(?)ですが、こうした人面をもつ鳥は中国鏡の紋様の中にも存在します。 「玄女(げんにょ)」「迦陵頻伽(かりょうびんが)」と呼ばれているものがそうです。 「玄女」は、後漢代の神獣鏡の中に、中国を最初に統一した伝説の帝王「黄帝(こうてい)」と共に登場します。 その姿は、首を持ち上げて胸を反らし、羽を後方へ広げた姿で、空から舞い降りたばかりのように見えます。 左:玄女、右:黄帝 ① 重列式神獣鏡(千石コレクション142、「建安元年」(196年)) 左:黄帝、右:玄女 ② 鍍金対置式神獣鏡(千石コレクション155、後漢) 「玄女」と「黄帝」の説話について、唐の杜光庭の『墉城集仙錄』(『太平廣記』に引く)によると以下のような内容が記されています。 黄帝が西王母からさずかった必勝の符(おふだ)を身につけると、人首鳥身の婦人がやってきて戦いに勝つことができた。婦人は「我は九天玄女なり」と名乗った。 ②の写真を見ると、黄帝(左側)が左手に弓状の符を持ち、玄女(右側)を呼び出した様子を表しているのがわかります。 鏡背面の紋様として黄帝を表すことで、戦いなどの凶を取り除くことが期待されました(鏡の銘文「黄帝除凶」)。その時に力添えするのが人首鳥身の婦人「玄女」です。 ピョンチャンオリンピックで登場した人面鳥は平和の象徴とされています。 人はいつの時代も非現実的なものに平和の実現を期待するようです。 <参考文献> ・森下章司 2016年『五斗米道の成立・展開・信仰内容の考古学的研究』平成24~27年度科学研究費助成事業 基盤研究(B)研究成果報告書 ・兵庫県立考古博物館 2017年『千石コレクション ー鏡鑑編ー』

四神シリーズ③ 玄武岩と四神

イメージ
皆さんは「玄武岩」という岩石名をご存じでしょうか? ごく一般的な岩石で、理科の教科書でも登場するメジャーな岩石です。 さて、この岩石名には、なぜ四神の「玄武」という名が付いているのでしょう? その謎を解く鍵は、兵庫県北部、豊岡市にある国天然記念物「玄武洞」にあります。 玄武洞とは、玄武岩を採掘してできた人工の洞穴ですが、その岩石は柱状に規則正しく割れており(柱状節理)、柱の断面形は5~6角形のものが多くなっています。 明治17(1884)年、東京帝国大学の小藤文次郎博士が、岩石に名前を付けるにあたり、「玄武洞」の名前にちなんで、「玄武岩」と名付けました。 つまり、「玄武岩」が採掘できるから「玄武洞」になったのではなく、「玄武洞」にある岩石に「玄武岩」という名前を付けたのです。 なんと、「玄武洞」の名前の方が先だったのです。 では、そもそも「玄武洞」という名前はどこからきたのでしょう? それは、江戸時代後期の儒者、柴野栗山(しばのりつざん)が文化4(1807)年に命名したことに因ります。栗山は、「玄武洞」の特徴である5~6角形の紋様が亀の甲羅にある亀甲紋(きっこうもん)を思わせ、柱状節理(柱状の割れ)が大きく曲がりくねる様子が蛇のようなので、亀と蛇が絡まり合う「玄武」を連想して名付けた、と言われています。 ちなみに、この玄武洞一帯には、玄武洞以外に、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞があり、四神の名前がそろっています(朱雀は南北2つあります)。しかし、それぞれの位置関係は四神の東西南北の配置とは異なり、バラバラです。 これら玄武洞以外の洞名は、大正時代以降、「玄武洞」の名前に合わせて観光用に命名されたものです。 その後も「玄武洞」は、 ・大正15(1926)年、地磁気の方向が今と反対の南を向くことの発見につながる。 ・昭和6(1931)年、国の天然記念物に指定される。 ・昭和30(1955)年、山陰海岸国定公園に指定される。 ・平成20(2008)年、日本ジオパークに認定される。 ・平成22(2010)年、世界ジオパークネットワーク加盟に認定される。 と、次々に価値が認められていきました。 玄武洞の近くには、城崎温泉、コウノトリの郷公園、出石そば、などなど、楽しいものがいっぱいあります。 一度、...

四神シリーズ② ピョンチャンオリンピックに四神が現る!

イメージ
昨日、ピョンチャンオリンピックの開会式が行われました。 テレビでその様子を見ていますと、そこに登場したのは、古代中国鏡でおなじみの四神。 韓国の歴史と文化を紹介するシーンで、高句麗の古墳に壁画として描かれていたことから採用されたそうです。 当館オリジナルの、四神をデザインした缶バッジをつくっていただいた皆さん。 県立フラワーセンターのサマーイルミネーションで、闇夜に浮かぶ四神をご覧いただいた皆さん。 当館で、四神が表された鏡(方格規矩四神鏡、重列式神獣鏡、四神十二支紋鏡など)をご覧になった皆さん。 テレビに映し出された躍動する四神を通して、東アジアに共通する文化を感じていただけましたでしょうか? オリジナル缶バッジ(白虎:方格規矩四神鏡モデル) サマーイルミネーションの四神(方格規矩四神鏡モデル) 四神十二支紋鏡(隋~唐:当館蔵)

四神シリーズ① 落語の中の四神

主に前漢代から隋唐時代の鏡に表された四神(しじん。ししん)。 日本でも高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に描かれていたこともあって、古代史好きの方ならご存じの方も多いはず。 今では、ゲームのキャラクターにもなっているそうです。 何か、身近に四神を感じられるものがあれば、と思っていますと、またまた落語の中に登場していました。 『百川』という古典落語で、なまりの強い登場人物が「主人家の抱え人」と話したところ、「四神剣(しじんけん)の掛け合い人」と聞き違えられ、騒ぎになっていく、という内容です。 「四神剣」が祭りで使われる道具であることを知らないと、この聞き違いの意味がわかりません。『百川』は江戸時代終わりごろに実在した料亭がモデルといわれているので、この頃の人々には「四神剣」は身近な存在だったのでしょう。 現代でも、「四神剣」を使う祭りがあるそうで、神具の販売店で売られているようです。 「四神剣」は「四神旗(しじんき)」ともいわれ、四神の絵が描かれた4本の旗のことです。 古くは、大宝元年(701)の春正月乙亥の日に、文武天皇によって行われた年始の儀式において、同じようなものが使われました。 大極殿正面の正門(南側)には、烏形の幡(大きな旗)、 左側(東側)には、日像・青龍・朱雀の幡、 右側(西側)には、月像・玄武・白虎の幡、 がそれぞれ立てられました(『続日本紀』)。 なお、この時に四神旗を立てた跡が藤原宮跡(奈良県橿原市)で発掘調査により見つかっています。(奈良文化財研究所 平成28年度調査。 詳細はこちら )。 今後も、現代にひっそりと隠れている四神の姿を探し出し、紹介していきますので、お楽しみに。

中国の故事成語に見る犬の扱われ方

「戌年」に関連して、「犬」の話題です。 現在の日本では、全国の18%の世帯で犬を飼っているそうで、その数は1,200万頭にも達するそうです(財団法人ペットフード協会 平成23年度統計)。 こうした日本人と犬とのかかわりは縄文時代からはじまり、犬のためにお墓をつくるほど、犬は大切な存在だったようです。江戸時代にも、戒名や命日を記した墓石が立てられた犬のお墓、三途の川の渡し賃が供えられた犬のお墓が見つかっています。 では、中国での犬の扱いはどうでしょうか。 その一端を示すものとして、2,000年以上前から伝わる故事成語をみてみましょう。 〇 狡兎死して走狗烹らる (こうとししてそうくにらる )  狩りの対象であるうさぎが死ぬと、 猟犬 も不要になって煮て食べられてしまう。 (= 敵 が滅びると、 功臣 も不要となり排除されてしまうことのたとえ)  犬は食べられる対象でもあったようです。日本でも弥生時代以降、食べられていたことがわかっています。飛鳥時代以降、犬食の禁止令がたびたび出されていたことからも、通常は食べられていたことがわかります。 〇 跖の狗、堯に吠ゆ (せきのいぬ、ぎょうにほゆ)   跖(せき)という名の大盗賊が飼っていた犬は、堯(ぎょう)という伝説の聖天子であっても吠えかかる。 (=犬は悪人であっても忠誠心をもって仕えるが、相手が天子であっても他人には吠えかかる)  犬の忠誠心が悪い方にはたらいた例えです。日本でも「〇〇の犬」なんて相手を悪く言う時に使いますよね。 〇 狗吠緇衣 (くはいしい)   緇衣(しい)とは、黒い服のこと。主人に仕える犬でも、主人の服の色が変わると吠えてしまう。 (=人は外見が変わると内面まで変わってしまったと思われることのたとえ)  服装によって見え方が変わるので気をつけましょう。それと同時に、服装にだまされないようにも気をつけましょう。 ・・・・・・ 犬に関する故事成語をいろいろと見ていますと、犬は身近な動物であるために扱われ方は冷たい感じがしました。せっかくの忠誠心があだになってしまうことも。 もちろん、大切に育てられた犬、愛玩用の犬も居たようですが、故事成語に表れた犬の地位を考えると、ちょっと気の毒に思えました。 ちなみに当館では盲導犬以外の動物の持ち込みは禁止...

「戌年」はなぜ「犬年」ではないのか?

イメージ
あけまして、おめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願いします。 今年は戌年です。テレビでは年末から犬の映像や話題が取り上げられています。 ところで、なぜ、戌年は「犬年」ではなくて、「戌年」と書くのでしょうか? こんなことを疑問に思うのは、心の純粋な子供か、私のような偏屈な大人ぐらいなのかも知れません。 この疑問を解くヒントは「方格規矩四神鏡」と「パルメット唐草十二支紋鏡」にありました。 方格規矩四神鏡は約2,000年前の鏡で、「戌」を含めた十二支の文字が中央の正方形の周りに並んでいます(写真1)。 (写真) (中央部分:X線画像を白黒反転して加工) 写真1 方格規矩四神鏡(新) 実は、この頃には十二支に動物の概念はなく、方位を示す座標として使われていました。 ちなみに「戌」は「ジュツ」と呼んで西北西に位置しています。 ところが、その600年後の「パルメット唐草十二支紋鏡」には、犬を含めた動物で表された十二支が巡っています(写真2)。 写真2 パルメット唐草十二支紋鏡(唐) 後漢(約1,900年前)に書かれた『論衡』(ろんこう)には、十二支に今と変わらない動物が割り当てられていることから、どうやら、この頃までには十二支の動物が完成、普及し、隋、唐の時代になると十二支は動物の姿で盛んに表されるようになったようです。 日本では、十二支のことを「干支(えと)」と呼んで12年周期の年を示す時に使いますが、その際、文字は動物の意味を持たない、本来の「戌」を使うため、「犬年」ではなく、「戌年」と表記しているのです。 ※この2面の鏡は現在展示中です。( チラシ )