落語の中の鏡

日々、鏡に関する小ネタを探しておりましたところ、昨日のテレビ番組で見つけました。

それは、NHKの朝の連続テレビ小説「わろてんか」です。
そこでは「崇徳院」という古典落語が出てきます。

話の中心となっているのが崇徳院の和歌で、
小倉百人一首77番の
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」(「詩花和歌集」恋上)
です。

詳しくはお話しませんが、最後のオチに鏡が出てきます。

この和歌の趣旨は
「川の水が岩によって引き裂かれてしまうように、今はあなたと別れてしまっているが、いつかは再び会いたいと思う」
というものです。
ところが、落語のオチでは、
「われても末に あわむとぞ思ふ」のところが、
「われても末に 買わむとぞ思ふ」
【(鏡が)割れてしまったので、末(月末)に買おうと思う】
と洒落を言います。

それはさておき、、、
時々、お客様から鏡がどれぐらい普及していたのか、というご質問をいただきます。
もちろん、地域や時代によって異なりますが、
この落語「崇徳院」は初代 桂 文治さん(江戸時代後期)の作といわれているそうなので、
このオチがその時から変わっていないとすると、
江戸時代の一般人はこの落語のオチを聞いて笑えるぐらいに鏡のことを知っていたことになります。

それからもうひとつ。
少し前のことになりますが、
NHKの別の番組「超入門!落語 THE MOVIE」で、
古典落語「松山鏡」が演じられていました。

この落語では、鏡を知らない夫婦が中心人物で、そのために勘違いをして喧嘩になってしまいます。
落語を聞いてる人は鏡を知っていたのでしょうが、
話の中心人物は鏡を知りません。

ひょっとすると、江戸時代でも鏡を知らない人が少しは居たのかもしれませんね。

<参考文献>
中村潤子1999「鏡の力鏡の想い」大巧社